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『猫を棄てる 父親について語るとき』   [村上春樹]



朝夕の冷え込みに秋の到来を感じる。
GoToトラベルで損したとか得したとか、本来の趣旨は応援である。
そうだ、京都で金沢でお金を使おう。

法事で帰る大阪を、GoTo トラベルにしたらあまりの安さに驚いた。
予定通りお金を使いに行くが、もちろんマスクに検温、うがいに手洗い。
こんな私でも、お役に立てるなら使わせてください。






『猫を棄てる 父親について語るとき村上春樹/文藝春秋(2020年4月25日 第1刷発行)
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p96
 言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。たとえそれがどこかにあっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。いや、むしろこう言うべきなのだろう。それが集合的な何かに置き換えられていくからこそ、と。


あとがき
 この文章で書きたかったことのひとつは、戦争というものが一人の人間、(ごく当たり前の名もなき市民だ)、の生き方や精神をどれほど大きく深く変えてしまえるかということだ。そしてその結果、僕がこうしてここにいる。父の運命がほんの僅かでも違う経路を辿っていたなら、僕という人間はそもそも存在していなかったはずだ。歴史というのはそういうものなのだ。無数の仮説の中からもたらされた、たったひとつの冷徹な現実。






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『一人称単数』を読んで」思ったことをここでも感じた。
村上春樹は自伝を書こうとしている。
それはルーツをたどり掘り下げていくことで、自分を探るということ。

そういう素材は誰にでもあり、だから物語は紡ぎ続けられる。
父親とは合わず疎遠だった村上春樹。
似た境遇の自分を重ねるが、そこの部分は触れられずに終わる。

おそらくデリケートなその部分が、いつか掘り下げられるのではないかと思う。
父親と息子の確執は物語になると思う。
私自身の浄化作用のためにも、ぜひ、書いてもらいたいと思っている。




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神奈川県内で続いている異臭騒ぎが気になっている。
多くの方々が異臭を感じているのに、何もないということはあり得ない。
単純なガス漏れか、あるいは地震の前兆なのか、不安として気になる。

いくつかの地域で110番通報され、異臭が共有されている。
そのくせ正体が明かされることなく、繰り返される。
気になる加齢臭どころではない騒ぎ、対岸の異臭。




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筒美京平さんが亡くなった。
洗礼を受けたのは南沙織の「17歳」、この明るさは救いだった。
合宿中シゴかれてヘロヘロになった夜、甘く明るい曲に救われた。

サザエさんの主題歌が筒美京平だとは知らなかった。
おそらく作曲家のことは知らずに、たくさんの曲を通過したのだろう。
人は絶えて終わっていくのだが、何かは残るのだろうな。




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サッカーの親善試合、コートジボワール戦を見ながら書いた。
退屈な流れだったけど、最後の最後に植田クンのゴール。
勝てて良かったけれど、ダイレクトパスやクロスの精度が低いのは相変わらずだ。


明日から伊東へドライブ、温泉へGoTo、のんびり楽しむ。
新車はディーゼルでありながら、一瞬の加速が凄い。
他を置き去りにする力はあるけれど、煽られぬよう、出来るだけ法定速度の順守。




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『一人称単数』   [村上春樹]



10月7日(水)納車=わくわく走るぞ!
10月8日(木)発表=ノーベル文学賞お願い村上春樹様に差し上げて!
10月9日(金)試合=サッカー日本代表 日本 vs カメルーン(オランダ)



今週は個人的に重要事項が集中していて、緊張の時間を過ごしている。
そんな時間に、村上春樹の短編集を、惜しみながら一作づつ読み終えた。
彼が早朝ランの後、午前中をかけて10枚だけ書くという時間を、追う耽読。





『一人称単数』 村上春樹/文藝春秋(2020年7月20日 第1刷発行)
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p148 (「ヤクルト・スワローズ詩集」)
 もちろん負けるよりは勝っていた方がずっといい。当たり前の話だ。でも試合の勝ち負けによって、時間の価値や重みが違ってくるわけではない。時間はあくまで同じ時間だ。一分は一分であり、一時間は一時間だ。僕らはなんといっても、それを大事に扱わなくてはならない。時間とうまく折り合いをつけ、できるだけ素敵な記憶をあとに残すこと、それが何より重要になる。


p205 (「品川猿の告白」)
「私は考えるのですが、愛というのは、我々がこうして生き続けていくために欠かすことのできない燃料であります。その愛はいつか終わるかもしれません。あるいはうまく結実しないかもしれません。しかしたとえ愛は消えても、愛がかなわなくても、自分がだれかを愛した、確かに恋したという記憶をそのまま抱き続けることはできます。それもまた、我々にとっての貴重な熱源となります。もしそのような熱源を持たなければ、人の心は、そしてまた猿の心も、酷寒の不毛の荒野となり果ててしまうでしょう。その大地には日がな陽光も差さず、安寧という草花も、希望という樹木も育ちはしないでしょう。私はこうしてこの心に(と言って猿は自分の毛だらけの胸に手のひらをあてた)、かつて恋した七人の美しい女性のお名前を大事に蓄えております。私はこれを自分なりのささやかな燃料とし、寒い夜にはそれで細々と身を温めつつ、残りの人生をなんとか生き延びていく所存です」



人は運命を避けて選んだ道で、運命に出会う事がある。 (ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ)



その読書時間が楽しかった。
読書の中からヒントが派生すると、自分の物語も生まれそうになる。
少しばかり不思議な感じを残しながら読み終えることが出来た。

ファンだけが楽しむ世界かもしれないけれど、面白い感覚をいま抱いている。
5枚と短くていいから懸賞童話に毎年応募しているけれど。
自分の中にある短編小説を書いてみようかなと、そんな気になる読書だった。

最近、時間の共有と記憶が、いかに大切かとおもうようになった。
確かにあった過去の時間を、読者を一人に限定して、短編を作ろうと思った。
お年を召したキャプテンに、17歳の狂気の時間を、恋にして、読んでもらう。

そういう妄想が生まれる読後感である。
むしょうに何かを形作りたい衝動が生まれたのは、私だけではないと思う。
誰にだってあのときや、あの時間があるのだからね。




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アマチュアカメラマンが集結する寺ではない、江戸側の土手。
引っ越してきた一昨年は見なかった場所に、咲き始めている。
種ではなく球根だから、人為的に咲き始めたのだろう。

モグラに穴を掘られて土手が崩れないように、毒をもって制す。
そこまで深くは考えずに、誰かがキレイだろうと、咲かせたのだと思う。
私たちに必要なのは、規則正しい散歩と、思索のための正座。




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散在する花は接近して、あるかのように見せよう。
「握りこぶしの中に あるように見せた夢が 遠ざかる」のは、中島みゆき様。
不思議な気分のうちに、形を見つけておこう。

そして決して舞い上がることなく、落ち着いて落ち着いて、ハンドルを握ろう。
隠したってその嬉しさは、顔に出ているのだと思う。
だって、傑作は裏切らない、だもん。




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GoToイートで、セコイ話を聞く。
鳥貴族に予約して1品だけ頼んで、払った額より多いポイントを貰う。
そんなセコイ人間には絶対にならない、武士は食わねど高楊枝。

割引をしてもらえるなら喜んで割り引いてもらう。
ただし、それ以上に使って差し上げようと、思う。
だって今は、使うために出向くのだからね。

鳥貴族に予約まで入れてセコイ真似する連中とは付き合わない。
基本的に体質が違うように思えるのだ。
まあいいや、晩節を汚すことなく、せめて最期は清く正しく可愛く終わる。



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『職業としての小説家』より   [村上春樹]



『職業としての小説家』という本があり、著者は村上春樹である。
その第二回の「小説家になった頃」に、ふと彼が思い立つ瞬間が描かれる。
「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」

その思い立つ場所が神宮球場で、ハルキストの隠れた聖地である。
天啓に打たれるつもりで、私も神宮球場へ行った。
そう、童話を書き始めるために。




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神宮球場で六大学野球を見ながら、一人称で始めようと思った。
神宮はある種のパワースポットかもしれないと、ひそかに思っている。
舞台は海、夏休み、父と息子、小学2年生、一人称、ぼく。




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(p41~42)
 一九七八年四月のよく晴れた日の午後に、僕は神宮球場に野球を見に行きました。
(中略)
 広島の先発ピッチャーはたぶん高橋(里)だったと思います。ヤクルトの先発は安田でした。一回の裏、高橋(里)が第一球を投げると、ヒルトンはそれをレフトにきれいにはじき返し、二塁打にしました。バットがボールに当たる小気味の良い音が、神宮球場に響き渡りました。ぱらぱらというまばらな拍手がまわりから起こりました。僕はそのときに、何の脈絡もなく何の根拠もなく、ふとこう思ったのです。「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」と。

 そのときの感覚を、僕はまだはっきり覚えています。それは空から何かがひらひらとゆっくり落ちてきて、それを両手でうまく受け止められたような気分でした。どうしてそれがたまたま僕の手にひらに落ちてきたのか、そのわけはよくわかりません。そのときもわからなかったし、今でもわかりません。しかし理由はともあれ、とにかくそれが起こったのです。それは、なんといえばいいのか、ひとつの啓示のような出来事でした。英語にエピファニー(epiphany)という言葉があります。日本語に訳せば「本質の突然の顕現」「直感的な真実把握」というようなむずかしいことになります。平たく言えば、「ある日突然何かが目の前にさっと現れて、それによってものごとの様相が一変してしまう」という感じです。それがまさに、その日の午後に、僕の身に起こったことでした。それを境に僕の人生の様相はがらりと変わってしまったのです。デイブ・ヒルトンがトップ・バッターとして、神宮球場で美しく鋭い二塁打を打ったその瞬間に。

 試合が終わってから(その試合はヤクルトが勝ったと記憶しています)、僕は電車に乗って新宿の紀伊國屋に行って、原稿用紙と万年筆(セーラー、二千円)を買いました。当時はまだワードプロセッサーもパソコンも普及していませんでしたから、手でひとつひとつ字を書くしかなかったのです。でもそこにはとても新鮮な感覚がありました。胸がわくわくしました。万年筆を使って原稿用紙に字を書くなんて、僕にとっては実に久方ぶりのことだったからです。




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神宮球場周辺の激変には驚いた。
オリンピックの準備が進んでいるんだなと思った。
妻と国立競技場はよく応援に行ったけれど、神宮球場はない。

今は亡き岳父、国鉄スワローズファンだったらしい。
おそらく少女だった妻も、連れて行って貰っただろう。
岳父は、村上春樹のそばで観戦していたかもしれない。

さて、応募作品、自己陶酔中。
でも、恥ずかしくてまだ妻にも見せていないし、見せないと思う。
ただ祈願するのは、当たればいいなー、賞金欲しいな、である。



ファイト!




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『若い読者のための短編小説』   [村上春樹]





マスコミも相撲も代表質問も、鬱陶しい話ばかり。
雑務と読書だけの時間を積極的に作ろうと思います。
そして、面白い映画も見ますけどね。





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朝ね、護送車が北警察署の裏門から出るんだけど、人気者が護送されるときは、マスコミの取材が押しかけて、結構邪魔なんですよね。車道におりてカメラを構えられると、迷惑をします。軽くクラクションを鳴らし、若い巡査に、危ないじゃないか注意しなさいよと、シートベルトを確認してから言う私でしたよ。






『若い読者のための短編小説』 村上春樹/文春文庫 (2004年10月10日 第1刷)
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村上春樹『若い読者のための短編小説』を読み始めました。なかなかよいです。『職業としての小説家』の前身と思えるまとまりと、プリンストン大学での講義だったと思うのですが、その講義対象となる短編小説も、図書館ですぐに借りられそうなので、授業に参加するつもりで読み進めていこうと思います。

「第三の新人」と呼ばれる人たちの短編が対象で、その先頭に吉行淳之介が配置され、奇遇でした。卒論では吉行を扱うつもりだったのですが、去年、喜寿のお祝いに伺った我が担当教授は、ダメと、当時の私の目が点になるのを楽しんだかも知れません。2年余りの準備がパーでしたから、参りましたよ。

結局、その吉行が好きな作家のひとりとする坂口安吾が研究対象に変わりましたが、変えて良かったと、いまでも思っています。それでも吉行への郷愁はあり、今回手にした村上春樹の講義に沿って、吉行を読み直し、以下、小島信夫「馬」、安岡章太郎「ガラスの靴」と、6人の短編を読み直しながら、村上春樹の講義を楽しもうと、ちょっとした、思い出のゼミが始まります。




p25 (僕にとっての短編小説)
書いたご本人からすれば、「俺はそんなこと思ってねえよ」ということになるかもしれません。あるいは事実と異なっていることがあるかもしれません。しかし僕としては、それはそれでかまわないのではないかと思うのです。読書というのはもともとが偏見に満ちたものであり、偏見のない読書なんてものはたぶんどこにもないからです。逆な言い方をするなら、読者がその作品を読んで、そこにどのような仮説(偏見の柱)をありありと立ち上げていけるかということに、読書の喜びや醍醐味はあるのではないかと僕は考えるのです。

p36 (まずはじめに)
もちろん「小説というのは面白いと思えばそれでいいじゃないか。理屈なんかどうでもいいだろう」ということもできます。そして僕はどちらかというと、そういう考え方に諸手をあげて賛成する人間です。なにかと理屈をつけなくてはやっていけない人間よりは、理屈をつけなくても不自由しない人間の方が、人生はずっと楽だし、それでとくに不都合がないのなら、頭をひねってむずかしいことを考える必要なんて何もないはずだと考えています。また頭をひねらせずに、心をひねらせるのが本当に優れた小説であると常々信じています。





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図書館へ行くのも、食材を買い出しに行くのも、かなり怖い。
滑る滑るよく滑る道、歩道も車道も、移動が怖い。
こういう日には、外出を自粛する、安全第一主義のオレ。

さて、今日はホットプレートで作るパエリアに、挑戦するぞ。
ロゼワインを用意して、あさりに赤エビ、いかと無洗米、用意周到。
これがうまくできれば、手抜き料理に使えるかしら。




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『職業としての小説家』   [村上春樹]




勤務校の図書館に推薦し、購入して貰った本を、急ぐことなく、落ち着いて読んだ。

もう数年早く読んでいたら、前任校の開放講座で、これをテキストに、もちろん購入してくることを前提に、授業ができたと思う。村上春樹の作品で、教科書に掲載されている『青が消える』を解説することも出来る内容があったし、しかしほとんどは分かりやすく書かれていたので、講義・解説の必要はない。良い物を読んでしまった。

札幌市の図書館に予約しているが、132番待ち。届けばもういちど読もうと思っている。全12章、ほぼ「わかる」という気持ち良さが経験できるから、快感なのである。



『職業としての小説家』 村上春樹/(株)スイッチ・パブリッシング
2015年9月17日 第1刷発行
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第一回 小説家は寛容な人種なのか
第二回 小説家になった頃
第三回 文学賞について
第四回 オリジナリティーについて
第五回 さて、何を書けばいいのか?
第六回 時間を味方につける―長編小説を書くこと
第七回 どこまでも個人的でフィジカルな営み
第八回 学校について
第九回 どんな人物を登場させようか?
第十回 誰のために書くのか?
第十一回 海外へ出て行く。新しいフロンティア
第十二回 物語のあるところ・河合隼雄先生の思い出

p202 (第八回 学校について)
 原子力発電所事故のために、数万人の人々が住み慣れた故郷を追われ、そこに帰るめどさえ立たないという立場に追い込まれています。本当に胸の痛むことです。そのような状況をもたらしたものは、直接的に見れば、通常の想定を超えた自然災害であり、いくつか重なった不運な偶然です。しかしそれがこのような致命的な悲劇の段階にまで押し進められたのは、僕が思うに現行システムの抱える構造的な欠陥のためであり、それが生み出したひずみのためです。システム内における責任の不在であり、判断能力の欠落です。他人の痛みを「想定」することのない、想像力を失った悪しき効率性です。
 「経済効率が良い」というだけで、ほとんどその一点だけで、原子力発電が国策として有無を言わせず押し進められ、そこに潜在するリスクが(あるいは実際にいろんなかたちでちょくちょくと現実化してきたリスクが)意図的に人目から隠蔽されてきた。要するにそのつけが今回我々にまわってきただけです。そのような社会システムの根幹にまで染み込んだ「行け行け」的な体質に光を当て、問題点を明らかにし、根本から修正していかない限り、同じような悲劇がまたどこかで引き起こされるのではないでしょうか。




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毎年のことではあるが、除雪が入り、排雪も終わり、春を待つだけになると、また、笑うように雪が降るのである。夜中の除雪車に起こされて、早くも午前2時から雪かきをするおばさんは、自動車を出しやすくなった息子から感謝されているのだろうか。


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大粒の雪が舞い、乙女たちは、春を待つのだろう。これからは大変な時代になるんだとか、おじさんは、余計なことは教えない。自分で感じて、自分で楽しみたまえ。おじさんも勝手に楽しんでいる。



ファイト!




女のいない男たち   [村上春樹]




公立図書館の順番待ちで、100番以上の数字が出ると幻滅してしまう。一人が1週間で返却しても、100週間待つのだから、「数年待ち」ということだ。こういう時こそ、伝家の宝刀を抜き、学校の図書館に推薦する。東野圭吾、村上春樹と来たから、村上龍の『オールド・テロリスト』も希望してみた。



『女のいない男たち』 村上春樹/文藝春秋 (2014年 4月20日 第1刷発行)
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彼女イナイ歴何年という、ある種の惨めな話ではない。恋の宴の後には必ずみじめさはあるのだが、ここでは実のある惨めさである。そして情けないくらいその空虚感が、ずっと好きだった。

作品の中でも「女のいない男たち」は次のように定義されている。
「女のいない男たちになるのはとても簡単なことだ。一人の女性を深く愛し、それから彼女がどこかに去ってしまえばいいのだ」


村上春樹を読んでいると、かなわないなと思うことがある。何人かの作家の作品を読むと、オレだってこれ以上のものが書けると思うことがある。しかし、村上作品を読んで、オレも書こうなどとは決して思わない。鑑賞する側に回るので十分であり、楽しませてもらった。ただ、人には好き嫌いはあり、理解しない人は、何が言いたいのだと、再読することもあるまい。

しかし、琴線に触れてしまうと、また読むだろうなと予感してしまう。少なくとも、6つの短編のうち、「イエスタデイ」は読み返すのかも知れない。歌詞の削除の問題はあったようだが、その時代の「空気」や、私の中にもあったもやもやしたものが、十分に伝わって、穏やかな気分であったから、これはまたいつか読むかも知れない。

絶賛はしないが、個人的に、古本屋で1円販売に遭遇したら、買うかも知れない。
物を増やさない! と、配偶者がキツく叱るだろうけれど。






中国の危なさは日増しに強固となる

「世界に皇帝は一人」と信じて疑わない一党独裁国が、確実に世界進出を始めている。バランスの危うい進出だから、きな臭い話も出始めている。アメリカ頼みのニッポンが、弱腰過ぎると、逆に争いに巻き込まれるかも知れない。中国も日本も、景気が悪くなると感情の爆発がありそうで、衝突をしたくない。

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現在、韓国が微妙な立場を見せ始めていて、日本近海のバランスが崩れるのが怖い。確かに、確実に中国は南沙諸島を既成事実化し始めていて、周囲を金の力で黙らせている。中国の金のバラまき方は見事で、確実に感謝させる使い方だ。日本は、「思いやり予算」でアメリカには莫大な予算を回し、アジアを味方につける金の使い方をしていない。中国の「外交」は、すでに第5の矢、第6の矢と、矢継ぎ早に射抜き続けている。「アベノミクス」では太刀打ちできないぞ。





イギリスは中国に魂を売らなかったのか

「ユニオンジャックの矢と大中華圏ネットワーク」を構築し始めたイギリス。イギリスも着々と経済国として大英帝国復活の足取りのようだ。エリザベス女王まで習近平を歓待し、魂を売ったかに見えたのだが。

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おもてなしに用意されたワインが、フランス・ボルドー産の赤ワイン、シャトー・オー・ブリオン1989年。お値段調査=税込 185,143 円(楽天)~ 税込 307,800 円(ENOTECA)と、高い。このお高いワインで中国の方々はおもてなしをされたようである。


「89年はワインの当たり年。英国に7兆円もの巨額投資をする賓客への特別なもてなしであることは間違いない。だが、数あるワインの中から、中国政府にとっては最も忌まわしく、触れてほしくない89年をあえて選んだ英王室の意図を想像せざるを得ない」



   習近平との晩餐会で出したワインの年号
     ・1989年 天安門
     ・2009年 ウイグル騒乱
     ・1977年 文化大革命終了
     ・2008年 チベット騒乱


おそらく大英帝国は魂を売りはしないだろう。
かつてスペインの無敵艦隊を神業で倒してしまったエリザベス女王の国だから。
既に力の乏しい日本国小市民は、米英の皮肉でも抵抗でも歓迎するしかなく、応援する。



ファイト!





『ふしぎな図書館』   [村上春樹]




『ふしぎな図書館』 村上春樹/講談社文庫 (2005年 1月31日 第1刷発行)
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何だか読んだ気がするなと思っていたら、『図書館奇譚』の改稿だった。
およそ20年の時間を経て改稿されている。
主人公が「僕」から「ぼく」に変化し、細部が洗練された感じはする。
おおよその枠組みは変わらないけれど、世界観が変化したのだろう。

「夢」のような話の絵本を楽しんだわけだ。
頭で理解する本ではないと感じている。
追い詰められて、理不尽に閉じ込められて、脱出するところまで脈絡がない。
個々に登場するものは、「何を意味するのか」と、考えるボンヤリ感が読後感。



それを無常観という。          




色褪せる街に歯止めはかからない          

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特急と各駅停車を乗り継いで、通勤している。
十分な読書タイムを確保しながらの通勤だが、最寄り駅からはおよそ15分かけて歩く。
ゆっくりと朝の散策をしながらの15分だが、勤務地までの道は、幾つかの組み合わせがある。
その日の気分や、晴れ具合によって、歩く道を変えている。
ただ変わらないのは、町が確実に廃れ、色褪せてきていることだ。





方丈記に言う。


ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。

淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。



ファイト!




『神の子どもたちはみな踊る』   [村上春樹]




村上春樹の短編集を読んだ。
6つの作品が収録されているので、通勤特急の片道で1つと決めて3日間で読んだ。
読んでいる最中から「余韻」が漂うので、急ぎ読みはしないでいた。

登場人物はみな、1995年1月に発生した阪神大震災に間接的に関わっている。
月刊誌『新潮』の1999年8月号から12月号までの連作である。
最後にあった作品『蜂蜜パイ』は、書き下ろしであるが、救われた気がした。
おそらく作者自身を投影した主人公を、「救世の主」として、静かに行動させたのだと思う。

1995年(平成7年)1月17日(火)午前5時46分52秒
朝の緊急ニュース映像に耐え切れなかった記憶がある。
三女が生まれて1ヶ月あまりだったが、定期預金を解約して、函館から伊丹へ飛んだ。
じっとしていられない感覚の記憶があり、そういうものが、我が子の成長過程と共に甦った。

良い作品を読んだあとなので、アホなことは書かない。





『神の子どもたちはみな踊る』 村上春樹/新潮文庫 (平成14年 3月 1日 発行)
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p135 『タイランド』
「たとえばこの音楽にしてもそうです。『いいかニミット。この音楽をよく聴きなさい。コールマン・ホーキンズのアドリブ・ラインをひとつひとつ注意深くたどるんだよ。彼がそのラインをつかって我々に何を語ろうとしているか、じっと耳を澄ませなさい。そこで語られているのは、胸の中からなんとか抜け出そうとしている自由な魂についての物語なんだ。そのような魂は私の中にもあるし、お前の中にもある。ほら、その響きが聴き取れるだろう。熱い吐息や、心のふるえが』とその方はおっしゃいました。私はその音楽を何度も繰り返して聴き、じっと耳を澄ませ、魂の響きを聴き取りました。しかしそれが本当に私が自分の耳で聴き取ったものなのかどうか、定かには分かりません。一人の人間と長く一緒にいて、その言葉に従っていると、ある意味では一心同体のようになってしまうのです。私の申し上げていることはおわかりになりますか?」


p142 『タイランド』
「あなたは美しい方です、ドクター。聡明で、お強い。でもいつも心をひきずっておられるように見える。これからあなたはゆるやかに死に向かう準備をなさらなくてはなりません。これから先、生きることだけに多くの力を割いてしまうと、うまく死ぬることができなくなります。少しずつシフトを変えていかなくてはなりません。生きることと死ぬることとは、ある意味では等価なのです、ドクター」




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今朝、長女のブログを読んでいて、おもしろいことが書かれていた。
いずれ届くのであろうが、柳月のお菓子を当てたようである。
どの程度のものが送られてくるのか、いまから楽しみである。
しかも、娘がドイツに行ってからなら、オレ独占禁止法には縛られない。うふふ。

 北海道の菓子メーカー、「柳月」が開催するエッセーコンテストに応募してみました。結果、佳作に選ばれました! 小、中学校の時は、色々エッセーコンテストに応募していましたが、今回は久々の応募でした。柳月で私が一番好きな「三方六」というお菓子についてのエッセーだったので、書きやすかったです。ペンネームAmyで出してみました。


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「私と三方六」想い出エピソード(19番目の佳作)



食欲の秋が始まっている。


ファイト!




『パン屋を襲う』   [村上春樹]




『パン屋を襲う』 村上春樹/新潮社(2013年2月25日 発行)
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前回読んだ『ねむり』に引き続き、カット・メンシックのイラスト付き「絵本」である。
これもまた、加筆され、初出とはニュアンスも変えたので、区別するためにタイトルは変えている。

 ・『パン屋襲撃』(初出「早稲田文学」1981年10月号)  『パン屋を襲う』
 ・『パン屋再襲撃』(初出「マリ・クレール」1985年8月号)『再びパン屋を襲う』

筆は確かだと思う。
個人的趣味では、続編となる『再びパン屋を襲う』の方が好きである。
「妻」の短絡的な豹変から、リーダー臭が生まれてくる所が面白くて好きである。
うちの「妻」にも、あったはずなのだ。





鹿児島では「ゴボウのお茶」を飲むようだ

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鹿児島では「ゴボウのお茶」を飲むようだが、それだけではなく缶入りで売る。
娘がアスリート食堂で、本日のオマケ、のようなもので持ち帰ってきたのだった。
冷蔵庫で眠ること5ヶ月あまり、ついに、飲んだ・・・。
ゴボウの「かほり」がする、が、まずくはない、不思議だった。





若奥様またまた当てました

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宅急便の配達車両が家の前で止まる。しばらくするとピンポ~ンと呼び鈴が鳴る。
若奥様が2階から降りてくる、当てたという確信のもとであろうか。
開封する娘に尋ねると、当てた、と確かに言ったように思う。当たった、ではなかった。

夏休み明けだ、ファイト!






『ねむり』   [村上春樹]




『ねむり』 村上春樹/新潮社(2010年11月30日 発行)
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 眠れなくなって十七日めになる。

これが冒頭の切り口である。一人称小説であるが、なかなか「私」の呼称が登場せず、男女どちらであるのかが分からない。「僕」ではないから女かな、いずれにせよ得体の知れない作品が始まったわけだ。

読み終えて感じたのは、文学青年の匂い、片鱗を垣間見、村上春樹は純文学畑の方なんだなと、改めて思ったりするのだった。学生時代、私の出していた同人雑誌の仲間で、この手の作品を書ける奴は居なかったけれど、他の同人で、こういう感覚的な作品を得意とする男が居た。その、林クンを思い起こしたりした。

林クンは結婚式の前日にドタキャンされてしまい、我が同人の仲間たちは花嫁候補だった「あちゃ」のファンだったから、みんなでこの結婚は反対しようと言い、現実に破談になったときは陰で喜びながら、大変だったねなんて、林クンに同情する姿勢をとる、卑怯な男たちだったことも思い出してしまった。

感性が研ぎ澄まされれば、この手の感覚の小説は理解できる。ただ、進む方向性、言い方を変えれば、崩れゆくものが不明なので、ある種のドキドキ感は随所にある。当然のことだけど、短編だから読み終わるのはすぐだったけれど、読後の休憩を必要とした。面白かったかな。








そっぽを向く「そっぽ」は「外方」だった

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富良野のペンション玄関にて

ひとの出入りのある玄関に番犬が居て、懐かしく思った。
あるいは、靴を履くときのためか、腰をかけられそうな木の切り株があった。
フィリピンから来た少女らしき人物が腰をかけていたが、カメラには気づかなかったようだ。
そっぽの向き具合が気に入っているのだけど、双方、何を見つめているのか気になります。




ファイト!






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