『 翔ぶが如く (十) 』 [司馬遼太郎]
今日は函館でお誕生会をする、と言って飲む。
一昨日誕生日だった男友人と、元祖乙女座会である。
なかなか読み進められなかったのには、理由がある。
作品の中にある気分と、どうしようもない機構へのもどかしさ、だと思う。
そのことを、司馬氏の9頁にわたる「書き終えて」を読んで、理由が分かった気がしている。
p357
「私ども役人は、明治政府が遺した物と考え方を守ってゆく立場です」
という意味のことをいわれた私は、日本の政府について薄ぼんやりした考え方しか持っていない。そういう油断の横面を不意になぐられたような気がした。私は、兵隊にとられている間じゅう、日本の国というものについていまなお言いあらわしようのない疑問を持っていたが、敗戦後、戦後社会がやってきたとき、ひどく明るい世界に出たような気がし、敗戦を、結果として革命と同質のものとして理解する気分にとりつかれた。いまでもその気持が変わらないが、よく考えてみると、敗戦でつぶされたのは陸海軍の諸機構と内務省だけであった。追われた官吏も軍人だけで、内務省官吏は官にのこり、他の省はことごとく残された。
機構の思想も、官僚としての意識も、当然ながら残った。太政官からすこしも変わっていません、というのは、おどろくに値しないほど平凡な事実なのである。
『 翔ぶが如く (十) 』 司馬遼太郎/文春文庫(2002年6月10日 新装第1刷)
p45
薩軍は、軍資金で窮迫していた。
高山手記に、薩軍がいわゆる「西郷札」という不換紙幣を発行しはじめたことに触れている。
「又、新ニ貨幣ヲ製シ、之ヲ布ク。之ヲ西郷札ト云フ」
紙幣発行の当初から「西郷札」といわれていたことがわかる。あるいは、宮崎町の軍務所が積極的に西郷札という呼称を流布したのかもしれず、おそらくそうであろう。
p50
「薩人は女。長人は銭」
と、旧幕臣の勝海舟が、この二つの閥の弱点について語ったことがある。
薩摩の武士教育は、武士としての生死の哲学と勇怯の哲学において世界に比類なくきびしかったが、しかし通気孔をつくるように、女色に対する窓だけは開放して、伝統的に寛容だった。この点、武士的倫理の全般にやかましかった会津の教育とは相違している。
p173
「いま何時ごわす」
桐野がきくと、西郷が時計をもっていなかった。桐野がおどろいてわけをきくと、うしなった、という。桐野はさらに驚き、いまからさがさせます、といったが、西郷は大いに笑って、拾った者にやろう、と言い、執着がなさそうだった。この一言が桐野を昂奮させ、、桐野はさがしにゆこうとした。
ところがすでに拾った者がいて、それを届けにきた。所有は、その者に帰した。ところが桐野はその者を追っかけて行って、
「それを売ってくれ」としつこく頼み、ついに五十円という大金でもって買いとった。そのことが、右の『大西郷画集』に出ている。
p300
「御免なって賜(た)も」
というや、別府の刀が白く一閃して西郷の首が地上に落ちた。
司馬氏は「書き終えて」という文章を次のように締めている。
この作品では、最初から最後まで、西郷自身も気づいていた西郷という虚像が歩いている。それを怖れる側、それをかつぐ側、あるいはそれに希望を託する側など、無数の人間現象が登場するが、主人公は要するに西郷という虚像である。虚像と対立する側や虚像の周辺をしらべてゆくうちに、私自身の中で、大小の驚きが連続した。ついに私自身が驚くために書いているような奇妙な気持さえ持った。書きはじめて四年数ヶ月という永い歳月をついやしたが、その実感はない。驚いているうちについつい終わってしまったというぼう然とした気持の中に、いま居る。 1976(昭和51)年九月/1972年(昭和47年)1月から1976年(昭和51年)9月にかけ、「毎日新聞」朝刊に連載
[メモ] テロリスト桐野利秋、陰謀家の川路利良、
昨夜は、もう後戻りの出来ない年になったねと、誕生日イブってことだった。
長女が焼いてくれた「100%PAIN」がおしかった。本場フランス風焼き加減の上出来だった。
ブロッコリーの温スープが、あったかいんだから。
今日は山を二つ越えて、函館にて、男子会+家族交流。
飲んで酔い、来週からリバウンド阻止。 ファイト!
『 翔ぶが如く (九) 』 [司馬遼太郎]
昨日の作業結果
水泳プカプカ 2.4㎞
自転車をこぐ 20㎞
歩こう歩こ 16846歩
「歩King」小樽遠征のダメージは、泳ぎでほぐしておいた。
ただ、札幌駅から北大構内を抜けたころ、歩くのがキツくなった。
本日は完全オフ、予想気温30℃だからこそ、露天風呂にでも行こうかと思う。
『 翔ぶが如く (九) 』 司馬遼太郎/文春文庫(2002年6月10日 新装第1刷)
p94
大久保利通も二月十七日に京都に入り、諸事を整頓し、旧御所をもって仮太政官とする旨、達示をおこなった。このままの体制で、太政官は西南戦争の大きな渦中に入った。
岩倉具視は、留守居として東京にいる。
この環境は、岩倉をひどく心細がらせた。岩倉ほどの、一種悪党のたけだけしさをもった男でも、公家あがりという素姓があらそえないのか、単独で物事をおこなったり、単独で責任をとったりすることにひどく臆病なようすであった。かれはしきりに京都の大久保に手紙を書き送った。
戦況は、電報で報らされてくる。
電報の威力が認識されたのは、この西南戦争からであるといっていい。
三月九日付の「東京日日新聞」にも、
「蓋シ、電報ハ吾人ヲシテ戦地ノ実形ヲ数百里外ニ坐観セシムルノ快器タリ」
と、書いている。もっともこの記事は右の文章につづけて、しかしその欠点は短すぎて事態のカケラばかりが新聞編集のデスクに山積し、戦況の細部もわからないし、かといって全体もわかりにくい、と正直に白状している。
太政官においても、おなじだった。実況がどうなっているのか、その断片ばかりが電報で送られてきて、それを山のように積み上げても、政府軍が勝っているのか負けているのか、よくわからなかった。
p108
山川健次郎は会津落城のときには数えて十五歳で籠城中の場内で沼間守一からフランス語を学んでいるといった少年書生にすぎなかったが、その兄の浩は二十代の若さながら佐川官兵衛とともに家老に列せられ、籠城の後半には野戦軍の総指揮をとり、山川浩は籠城軍の総指揮をとった。ついでながら戊辰戦争で、敵味方を通じて野戦軍の名将といえる人物は、長岡藩の河合継之助のほかに桑名藩の立見尚文、会津の山川浩とそれに佐川官兵衛があげられるだろうが、いわゆる官軍においては板垣退助以外にそれに値した者が居そうにない。
p156
太政官が、私学校軍に対するのに会津人の憎悪を利用したというのは、政治のむごさと滑稽さをよくあらわしている、第三者からみれば利用された会津人が、こけのように見えるが、しかし当の会津人たちの感情からみれば違うであろう。会津人は戊辰のとき薩長から闇雲に「賊」にされ、藩ぐるみ凄惨な処刑をうけた。ところがこのたびは薩人が「賊」になった。それを会津人が「官」という正義の立場から叩っ斬るのである。本来、太政官そのものが会津の敵であるべきものであった。しかし会津人はそのことには目をつむり、眼前の私学校兵士を薩人とみて(それにはちがいないが)復讐の鬼になった。
ひどくなまな感情だが、ゆらい憎悪というのはその次元が低いほど激しい。もっとも会津人の理性の次元においても、憎悪は生まれる。会津人は戊辰は西郷と薩人たちの私欲より出たものだと思っていたが、私学校決起を反革命と見ることによって確認した。その確認もまた憎悪を生んだといっていい。
アップルワインは私の好みではない甘ったるさであることがわかった
匂いをかいだら飲みたくなる。
飲むなら乗るな、乗るなら飲むな、乗るけど飲むのは運転しないから。
余市まで遠征する目的は果樹園で果物狩りを体験するか、アップルパイを食べるため。
もしくは、マッサン効果の人出を見物に行き、試飲しちゃうことかな。
3人分を飲むとさすがに、「酔う」という実感がある。
アップルワインが甘くて気持ち悪くなってしまうのだけど、これだけは失敗だった。
夏休み、Burning Summer、大いに ファイト!
『 翔ぶが如く (八) 』 [司馬遼太郎]
とうとう西南戦争の火ぶたが切って落とされた。
絶対恩師・上迷が言っていた無念の、「越すに越されぬ田原坂」は耳に残っている。
『 翔ぶが如く (八) 』 司馬遼太郎/文春文庫(2002年5月10日発行)
p218
「戦い全体においても緒戦が大事である。小さな隊ごとにあっても同じことだ。最初に敵と出遭ったとき、どんな無理をしても勝たねばならぬ。最初の戦闘で負けると、敵の士気をあげてしまうだけでなく、味方の士気が低下し、敵を怖れるようになる。そのひらきは、埋めがたいほどに大きい。また最初の戦闘に負けた指揮官は、つぎの戦闘で名誉を回復しようとし、つい無用の無理をし、また負けたりする。いかにつぎの機会に苦闘し、そのつぎの機会に苦闘をしても、ひとは、あれは名誉回復のためにあせっているのだとしか見ず、正当な評価をしてくれない。戦闘は最初において勝たねばならない」
この思想は、与倉だけでなく、薩人において歴史的に濃厚であるといえるかもしれない。
p222
「テゲテゲ」
にしておくのである。テゲとは大概ということ。いい意味での大ざっぱ、いい加減に、ということで、配下の小隊長たちは、これも薩人の風で、こまかい指示に束縛されて自己の裁量の幅をちぢめられることを好まない。この点、命令と指示でうごいている政府軍とちがっていた。
p280
「幸先がいい」
と、三好はしきりにいった。三好は長州奇兵隊あがりで戊辰のとき北越で長岡藩の河井継之助隊と戦った。かれはやや驕慢なたちだが、俊敏さはいかにも奇兵隊あがりという感じはある。
「乃木少佐は疲れているのではないか」
と、野津がいって、後方警備にまわしてはどうかといったが、同郷人の三好はむしろそれは乃木のためによくない、こんどの高瀬への南下戦には乃木を先鋒にし、かれに功名の場をあたえてやろう、といった。
乃木の連隊は銃器や弾薬を過半すててしまっているのだが、南関においてその補充もできた。この時代、逃げるときに銃器などをすてても罪にはならず、あとで補給をうければしまいであった。銃器は、あくまでも道具であった。道具に精神性が負荷されてそれがために兵士を銃器の奴隷のように束縛してゆくのは、乃木らが後年将官になってゆく頃からである。
p286
大阪には、大村益次郎がその基礎を作っておいた工廠があった。ただしこの工廠の機械は、前線に配ってある新式のスナイドル(後装銃)の小銃弾の製造能力は低く、一日四万発しか作れなかった。西南戦争を通じて政府軍が消費した小銃弾は三千四百八十九万三千五百発で、大阪の工廠の製造能力をはるかに上まわった。
休日にボストンベイクに並んだ
近所に「窯出し価格のボストンベイク」がある。安くて美味しいので大人気。
朝8時から、前日に切り落としたパンのミミやヘタを廉価販売する。
張り紙が「今日は17袋ほどです」と張り紙があり、休日の朝、次女と並んだ。
大概はお年寄りがイノチガケで並ぶのだけど、仲間入りをしたわけだ。
1袋が50円。私の所で「あとはフランスパンだけですぅ~」と言われ、買う。
娘と、2袋ゲットし、1袋は冷凍冷蔵庫に保管。美味いんだよ。
火曜は若奥様のアスリート食
昨日は、午前中に、講師だけが燃える講習をやり、少し気落ちした。
午後は、学校のプールで泳いだ。初泳ぎである。死なない程度にプカプカ、2㎞。
毎日が暑くて、連日の30℃越え、食欲低下でも、火曜のアスリート食。ビンビンだぜ。
ファイトぉー!
『司馬遼太郎が語る 〈第四集〉』 [司馬遼太郎]
『司馬遼太郎が語る 〈第四集〉』/新潮社(講演)
『文章日本語の成立』
・共通日本語の成立
明治維新のように革命が起きると、それまでの文章も滅ぶ。役どころにおいてその文章、文体が完成するには100年かかる。
・多目的に用いられる文章が共有になる
作家の文章と記者の文章が似ていると言うことは、文章が共有できる、共通のものになっていくこと。
明治23年、泉鏡花は自分で文章を作ったが、彼の文章は彼の世界を表現することはできたが、震災後の深川を描写することはできなかった。 (夏目漱石は多目的の文章を作った)
司馬氏の友人曰く、ドイツ語は、ひとことで言えば、誰が書いてもドイツ語の大学入試試験問題になる言葉である、と。それを聞いて、ドイツ語は成熟したんだなと思った。
幕末の志士が議論をしたかと言うと、そうではなかったであろう。隣に住む者にすら、手紙を使った。依頼であれ、漢文混じりか候文で、意志の通じ合いをしていた。非常に不自然な言葉だった。西鶴、源氏物語では、幕府を倒すとかペリーショックを論じることはできなかった。
福沢諭吉が、「スピーチ」を「演説」と訳した初めであろう。三田に「演説館」を作り、文明開化の基礎とした。ただ、彼には(『福翁自伝』によると)、一つの疑問があり、日本には一つの言葉で長い時間しゃべり続けるという伝統というものがない、どうすればいいのだろうか、と悩んだ。
しかし日本には、真宗の坊さんのお説教がある。これだけがあったな、と思った。訓練された説教坊主がいた。高座のような所で、一つのテーマを説く。阿弥陀様の有り難さなど。ただ、文章では成立していない明治初めである。
明治20年の朝日新聞に「花吹雪」という文が掲載されている。戯作調の文章が延々と続いていく。切れ目なく、「。」がない。日本語の基礎にあるもの、日本語の生理、切れない、「。」がない。
明治40年、6月。記事本文は堅苦しい文語体。夏目漱石の連載小説『虞美人草』のところには、陽が差したような口語体。同時期には、学生なのに志賀直哉が『網走まで』と言う作品を書き、雑誌社に送りつけたがボツになっている。
『虞美人草』は口語体だから、色恋沙汰まで表現できて、思想的なものが十分に表現されている。志賀に比べ、道具として多目的に使える日本語であろう。文章が、自分と相手に対して一定の距離を置く事ができるものを漱石は作った。
志賀は自分に即したもの、自分の情念なり自分の何事かに即しすぎた文章しか持てなかった。漱石の方は、自他を客観視することができる所まで行っている。これには正岡子規の影響も大きい。文語体であっても平易で平明な文章であった。
『墨汁一滴』の中に、田舎育ちの自分(子規)たちは何でも知っている。しかし、何かにおびえて暗い表情である。東京の子どもは明るいが、ものを知らない。食べるタケノコが、竹の素だとは知らない。自分たちは草鞋を作る境遇にいた。東京の子どもは、鉛筆も削れない。などと、後世の者でも読んで分かる文章である。
・明治10年、中学に国語ができた
日本では日本語を教えていないのか、とフランス人あたりから言われ、急いで国語科を作った。
オランダ語の、漢文の、馬術の先生は居たが、国語の先生は居なかった。枕草子の頃にも、もちろん居なかった。日本語を教える先生は居なかった。文明開化の印として、国語科が設置された。
松山中学では困った。そこで神主を呼んできた。きっと祝詞(のりと)のことだろうと、日本語(国語)の授業で若い神主が来て、祝詞を教えた。「かけまくもあやにかしこく」とフシをつけて延々と「。」のない、途切れることのない言葉が、国語科の全容であった。文章日本語、国語の出発がいかに困難であったかが分かる。子規は退屈で苦痛の時間であったと記している。
お母さん、お父さんは、どこにも使われたことはなかった。文部省が勝手に作った。階級によって「母上」とか、「おっかぁ」とか、それを全部一つに言語を統一しなきゃいけないというので、おっかぁは良くない、母上は重すぎるということで、お母さんを作った。
「さようでございます」も消され、「そうです」という敬語を明治新政府が作った。過去に使われたことはなかった。ただ、「そうです」は一説によると、江戸末期の花街で使われていたと言う。
・表現をし、重ねることで成熟していく
文章表現を必要とするあらゆる人が、日本語を作っていた。
西洋人は皆、大きな体験をすると必ず文章にして報告する。それが義務であり、責任であると桑原武夫は言う。
文章共通語ができると、誰でもが言いにくかった感情を、言いたい政治的主張も文章にすることができる。文章にはしなくても、明治以前の日本人とちがって長しゃべりをすることができる。そういうようなスタイルが、我々の中に共有できるようになり、成熟したのであろう。
若奥様は自転車も直しにかかる
中古で買った、変速ギア付き自転車がパンクしたようで、次女様大いに困る。
修理に出すと、5000円もかかると言い、そんなお金は使いたくないらしい。
なにやら工具箱を出して活動している所を見ると、自分で直すことに挑戦模様。
まずは、タイヤを外す所まではできたようである。
初夏がやってきた! やあーい
昨日の歩きは、24746歩。
予定の25000歩には届かなかったが、おおむね達成であり、本日の励みになる。
今日も歩く、聞く、読む、考える。
そして大いに語る。
ファイト!
『司馬遼太郎が語る 〈第三集〉』 [司馬遼太郎]
「Simple is the best.」とは半世紀近く前の、東レだったかのCMにあった。
最近の、断捨離姿勢や野菜中心食の自分に近いものを意識する。
『司馬遼太郎が語る 〈第三集〉』/新潮社(講演)
『草原からのメッセージ』
(文化と文明は違う) 遊牧は文明である。
文化は不合理なものである。毎月、朔日になったらお不動産へお参りに行く人がいる。行っても仕方がないのに行く。箸の上げ下ろしというのがある。ご飯を片手で掴んで食べる人はいない。掴んで食べる方が速いのに、マナーがある。どうしてそうしなくてはいけないのかと言うと、「理屈を言うな」と言われる。不合理ではあるけれど、それを文化という。襖も足で開け閉めした方が速いけれど、そうはしない。文化だから合理主義ではない。
文明というのは徹底的に合理主義である。我々は飛行機文明に参加していて、参加するにはチケットを買うことと、離陸するときにベルトを締めてくださいと言われ、その指示に従う。それだけで参加できる。手軽なのである。それが文明である。
遊牧もその遊牧の仕方のメソッドを覚えたら参加できる。誰でも同じように出来る。
モンゴル高原は地球上で一番の遊牧の適地である。ステップでなくてはならない。高い木があってはならない。10㎝ほどの根っこがあるだけ。適地だと言うことで大集団になったのが匈奴である。大勢力である。紀元前の話。ヘロドトスがギリシャから眺めていたように、中国から司馬遷という柔軟な頭脳の持ち主が匈奴を眺めていた。すると、住環境も、生活の仕方も、ヘロドトスの記録と変わらない。年代は少し差がありヘロドトスの方が少し上。
遊牧民は土を掘ることがタブーである。農業は土地を掘るのでタブーであり、破壊につながる。農業は「絶対善」であると、我々は思うが、遊牧民の目から見たらこれほどの悪はない。
あれだけ優れた頭脳集団であるギリシャ文明が、夢のように消えていったのは、「人口爆発 → 青銅器開発 = 木炭を作らねばならない → 大伐採する」「人口増 → (食の)羊を飼う」 羊は賢くないから、ずっとそこで食べ続け、草の根っこまで食べ続ける。翌年、草が生えなくなる。山羊は落ち着きがない。山羊を一頭入れておくと、動きまくる。羊もつられて移動していく。ギリシャの羊飼いたちは、山羊を入れなかったに違いない。
草の根っこも食べ尽くす → 保水能力がなくなった → ギリシャは赤土の岩山になった。
強い風で、照りつけられ炒られた土は吹き飛ばされ、後は岩だけが残る。二度と草は生えない。
中国人は鍬を持った農業文化である。「大人口=北京 → 野菜不足 → 内モンゴルを開拓 → 北京近郊まで砂漠化する」 むかし、余計なことをするなと匈奴は怒ったが、記録したのは中国側。しかし現在の様子を見ると、匈奴の方が正しかった。北京近郊まで砂漠が迫っている。
農業帝国は記録をとる。どこで何がどれだけ獲れたかを記録する。記録文化が発生する。匈奴の服装まで記録している。そこから、ズボン、レインコート、ベルトはスキタイやモンゴル人が考えた物と分かる。ギリシャ人も、孔子も、ゆったりした服装である。ズボンを穿いていない。騎馬民族は、ズボンにブーツでなければ馬に乗れない。
大好き火曜は若奥様に感謝の食事
・ トマトと茄子のマリネ (確実に夏模様の食事)
・ オニオンスープ (私にはちょっと薄味 = 健康 → 慣れよう)
・ チョレギサラダ (◎ 実に美味いやんか!)
・ カボチャとピーマンのきんぴら (見た目と違う味に嬉しさを実感)
・ 豚肉の大根とポン酢煮 (◎ 夏バテ回避の美味い食べ物でした)
わたし焼き肉屋さんで一番好きなサラダ、と若奥様が言う。オレも、美味いねぇ~。
このレタス、庭の花壇で獲れたやつだよ。どおりで新鮮さに親近感が湧いたよ、とオレ。
今週は、「ちょっとした物」を捨てにかかる断捨離・毛細血管編、おそらくかなり引き締まる。
肉体の方も内部改善が進み、ランニングも少し入り始めた。筋トレも入る。
明治維新後の新政府はまだ重いので、東野圭吾で少し浮気する。
週末は学校祭、再任用ハーフタイムには無縁の行事、少し寂しい。
ファイト!
『 翔ぶが如く (七) 』 [司馬遼太郎]
司馬氏によると「拷問」文化が定着し、研究されたのは江戸時代だという。
それまではなく、士農工商制度を徹底したせいで、武士以外には平気でやり通したらしい。
さて、そういう描写が「史実」として記述されると、維新後の本作品も読書スピードが上がらない。
気分は重い。
今の警察を組織化する川路利行は、かなり純粋に拷問を断行したようだ。
薩摩の私学校側もスパイ警察を、徹底的に拷問して西郷暗殺計画を吐かせようとする。
いよいよ沸騰し、私学校生徒が暴発、西南戦争勃発の段で、再びしばらく休むことにした。
『 翔ぶが如く (七) 』 司馬遼太郎/文春文庫(1980年4月25日 第1刷発行)
p34
武士らしさというのは要するに行動の爽快さだが、清水が前原にもとめたいのはそのことであった。しかしながらそれ以上に腹立たしいのは、誇りの高い長州人を鳥獣同然にあつかおうとする警察の態度だった。清水は岡田らが横山俊彦に加えた暴虐と拷問だけで、敵は警察だという気持ちになっている。
p135
憎悪している者を、その憎悪を資格としてその任にえらぶというのは、大久保がいう「男子はすべからく灑々(さいさい)楽々としていなければならない」という境地からおよそ遠く、陰湿このうえない。
・ さいさい【灑灑】( トタル ) [文] 形動タリ 水などがそそぎ落ちるさま。
TM様 実に寝ぼけた挨拶状ではありますが、失意の晩年、長女の進路が決まるまで待機しておりました。本命ドイツ確定までの期間はヤキモキしましたが、決まればそれで宜し。現在彼女は自動車学校で、恐れを知らずマニュアルに挑戦中です。欧州ではマニュアルが必要だと言い、オートマ主流の時代にきっとアフリカでの運転を想定しているのでしょう。緻密そうに見える臆病者の慎重さには、どこかしら穴もあいていますが、それもまた愛嬌でしょう。◆娘がパリ政治学院に通った時の下宿先は、17世紀に建てられたアパートでした。その持ち主宅での下宿でしたが、1月に厚かましくも押しかけ、10日間パリ散歩を堪能し、ワインを飲みまくりました。美術館巡りにシビれ、テロを傍観し、ワインとチーズは至福の時。またぞろ押しかけ欲求が復活いたしました。◆次はドイツ。建築物とブンデスリーガ、それにビールとワインが待機しています。しかしその前に、スイス時代の娘の下宿先にも呼ばれているので、そちらでもワインを楽しむ予定です。が、まずは金策。
庭のキュウリの葉っぱが白く、うどんこ病にやられたようだ。
朝から葉っぱを10枚ほど切り取った。
しばらく様子を見る。
今日から妻が、我が母親の見舞いに大阪へ行く。
今夜と明日は、若奥様の手料理となる。妻不在は寂しいが、次女の料理が楽しみである。
ギリシャの我が儘でコケたくはない。何とかせぇー! ファイト!!
『 翔ぶが如く (六) 』 [司馬遼太郎]
『 翔ぶが如く (六) 』 司馬遼太郎/文春文庫(1980年3月25日発行)
p120
松陰は思想家であるとともに、思想をそのまま行動化しようとする激烈な人物であり、かれのいう「同学」(門人)に対してもそうあるべきだと教えてきた。国事のためには当然、両親のもつ思惑や概念、不安と断絶してしまわねばならぬことがあり、このことは中国風の儒教の中心をなす孝に反している。
p198
この両人については、大警視川路利良が他の「探索方」に対してもおこなっているように、のしかかるような情熱でもって個人教授したに相違ない。
遅々として父の日を過ごす
朝から若奥様(次女)が忙しそうに動き、ときおり長女も参加していた。
午後の長女はフランス語検定1級の受検にお出かけなので、お料理参加は午前のみ。
遅々として断捨離模様のはかどらない父は、うっしっしと朝から晩ご飯を期待である。
・アヒージョ(パンと共にいただく)
・冷製トーフごま味噌スープ
・バスマティライス(欧州代表は長女/瑞西・仏蘭西では夏食だったらしい)
・マルゲリータパン(トマト+バジル+onチーズ)
・マルゲリータパン(トマト+バジル+inチーズ)
・ローストポーク
デザートは、「畑プリン」だそうな。地面に模したのは、オレオとバターサブレを砕いたもの。中は、カボチャプリン。丸い玉は、カボチャ団子を求肥でくるんだもの。面白く、素敵な味だった。全て初めてのお味でした。一期一会。
ファイト!
『最後の将軍』(徳川慶喜) [司馬遼太郎]
『翔ぶが如く』に疲れていたので、もういちど幕末を散策した。高杉晋作も振り返り、薩長土肥の主君たちも、短編ダイジェストで読み終えた。再び、維新後に窮してしまった一蔵たちを読み続けることになる。徳川慶喜を主人公とするこの作品を読んだのは、とても良かった。彼に興味を抱いた。
1967年3月 単行本
『 最後の将軍 徳川慶喜 』 司馬遼太郎/文春文庫(新装版第1刷 1997年7月10日発行)p147
「御弁疏(ごべんそ)はご無用でござる。あすからは拙者が隅州にかわりお台所の御料をさしあげまするゆえ、拙者に御随順なされよ」
どうせ宮は金で動いているにすぎぬ、ということを、激しく諷した。
「いまより、天下の後見職を」
と、慶喜は自分のことをいった。
「愚弄なさるな。これに控える三人の大愚物と同様同列であるとおぼしめさるな。この段、よくよくお心得あってしかるべし」
p219
「百策をほどこし百論を論じても、時勢という魔物には勝てぬ。」
と、慶喜はいった。
大学が作るクッキーが美味かった
友人がお土産に持ってきてくれた。
大学が、こんなにおいしいクッキーを作っていることに驚いた。
いずれ、大阪に帰るときに持って行こうと思った。
『 酔って候 』 [司馬遼太郎]
p329(「あとがき」 昭和40年2月)
いったい、この革命期の殿様というのはなにを思い、どう行動し、時流にどのように反応したのだろうということが、私のながいあいだの関心事だった。
ここにおさめた数編は、そういう私の関心を私なりの興味のもちかたで小説にしたもので、史伝風の小説と解してもらえばありがたい。ただしここに登場している藩主たちは、当時、主導的役割を演じた(すくなくともかれらはそう思っていたろう)といわれる「賢侯」たちである。かれらは藩主なるがゆえに歴史の風当たりをもっともはげしく受け、それを受けることによって痛烈な喜劇を演じさせられた。
『 酔って候 』 司馬遼太郎/文春文庫(新装版第1刷 2003年10月10日発行)
p18 (『酔って候』=山内容堂/土佐)
「あたり前のことをいうものではない」
と、ただそれだけをいった。家老たちが姑息な言いまわしで、自分たちの恩を売りつけようとしているのが、不快だったのである。
p135 (『酔って候』=山内容堂/土佐)
理屈では、容堂にかなわない。だけでなく容堂の意見は白昼堂々の正論であった。しかし革命は、白昼堂々の正論では成就しない。多少の非論理、飛躍、陰謀、虚喝の有毒成分を必要とする。
p307 (『肥前の妖怪』=鍋島閑叟/佐賀)
「大殿様、いまの時勢をどう思われまする」
思い切って切りこんだ一書生を閑叟はじっとみて、
「勤王亡国、佐幕亡国というところだな」
といった。要は、「孔子、孟子は尊敬するに足らぬ。なぜならばかれらをいまの日本に生まれしめても一隻の軍艦も造れまい。空論を戦わせているうちに国がほろぶ」という意味なのであろう。
p313 (『肥前の妖怪』=鍋島閑叟/佐賀)
「それにしても十五万両、十万両というのは高すぎる。薩長両藩とも公卿、浪人をほどよくつかい、おどらせ、それにずいぶん金を流しているのだろう。おおかたそれで想像がついた。京の情勢々々というが、おおかたはそういう金で動いている人工的な情勢だ」
さらに笑った。
「無用なことをする。わしはその十万両で軍艦一隻を国産にてつくった。人間の物の考え方というものは議論でやるべきものではない。眼で見、手で触れる物であらわすべきだ。わしの意見は、軍艦であり、旋条銃である」
p321 (『肥前の妖怪』=鍋島閑叟/佐賀)
「衰弱した政権が内乱をおこせばかならず政府そのものが倒れる。幕府はみずから亡びようとするのか」
といった。閑叟はこのころ、すでに日本を欧米列強なみの富国強兵国家にするには、幕府・朝廷といった二重統治の状態では不可能であることを知っていた。
p324 (『肥前の妖怪』=鍋島閑叟/佐賀)
び‐こう【微行】━カウ 〘名・自サ変〙〔文〕身分の高い人がおしのびで出歩くこと。/「王が━して民情を探る」 明鏡国語辞典 第二版 (C) Taishukan, 2011
長女が帰ってくるなら買って候
昨日は、札幌駅で途中下車して東急百貨店へ行った。長女が帰ってくるので、食卓に花でも飾ろうと、寄ったのである。地下の小さな店には親切な店員さんが居るので、あれこれと尋ねることが出来るので安心だ。とても鮮やかな黄色い花があって、買おうとして、種類を尋ねたら菊だと言い、どうも菊には仏壇のイメージがつきまとい、鮮やかな黄色を手に入れることは出来なかった。
まずは長女が運転免許を取るまで、静観することになるのでしょう。
だから、のんびり、ファイト!
『 十一番目の志士 下 』 [司馬遼太郎]
『 十一番目の志士 下 』 司馬遼太郎/文春文庫(新装版第1刷 2009年2月10日発行)
p53
奇妙な男であった。頭脳よりもエネルギーだけで動いているようなところがある。臆病とは思考力の変形だろうが、そういうひるみもこの男にはあまり無いらしい。
p186
「考えてみろ。人間というものは艱難は共にできても富貴は俱(とも)にできない。わが藩内の同志どもも、艱難のときには心を一つにして目的のために戦うが、それが成功し富貴を得ると、もう仲間割れをはじめる。君子たる者は、富貴が来ればそれを避ける」
p250
「見つめることは」という言葉を省略している。いかに同藩の同志とはいえ、この猛獣のような殺人技術者にこうも見つめられてはさすがに気味がわるいらしい。
p304
高杉は息を休めず、「それとも」、と言いかさねた。「殺すことに倦きたかね」
さらにつづけた。
「物事に倦きたやつは、論の多いものさ。心の火が燃えているときは屁理屈はいわない。疲れて心気が萎えてくると、言葉かずが多くなってくる。お前がそうさ」
株主優待
長女が中学生の時、株主優待でジュースやら食べ物が届くと言うことで、ためたお小遣いでカゴメの株を持っていた。それで儲けた後、伊藤園を買い、お茶やらコーヒーが株主優待で届く。次女にはコカコーラからスポーツドリンクが株主優待として届き、商品券も届いている。三女の所にはキューピーからマヨネーズや食品が届く。あるいは吉野家からは金券が届く。
定年を迎える数年前ふと思ったのだ。もし、収入が途絶えてしまったらと。焼け石に水ではあろうが、無洗米が届く会社、カレーが届く会社、オリーブオイルが届く会社と、東証一部の手頃なものを買った。そういう一環で買ったある会社は、ワインが送られてくる。去年は美味しくなかったが、今年はとても美味しかった。無収入になっても年に1本は飲めるのだから、少しぐらい上がってもこの会社は手放さない。
ファイト!