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『 十一番目の志士 上 』   [司馬遼太郎]



『 十一番目の志士 上 』 司馬遼太郎/文春文庫(新装版第1刷 2009年2月10日発行)
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p41
 「日本の敵はむしろ中にいる。その者どもがその地位にいるというだけで、日本の亡びの原因(もと)になる」
 「たとえば?」
 「将軍」
 と、高杉はいった。


p65
 兵法の真髄はつねに精神を優位へ優位へととってゆくところにある。言いかえれば、恐怖の量を、敵よりも少ない位置へ位置へともってゆくところにあると言えるであろう。
 (斬られる)
 ということを、晋助はひたすらに考えまいとした。




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YOUのお持ち帰りか


長女と歩き続けた東京遠征だった。日本にいる間の長女は、お祖母ちゃん(妻の母上)が使わなくなった携帯電話を借り受けていて、それは老人仕様だから万歩計内蔵らしい。晩ご飯の時など、娘が、今日は15000歩あるいたね、などと発表するから、俄然おいらも頑張って歩きたおした。



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駅から自宅までを歩いていると、或る一軒家で止まり、「あ、ルノー」と言う。巴里を歩いているときにも説明されたのだが、ナンバープレートの右端の2ケタで所属地方が分かり、「75」が巴里を示しているらしい。この家の方、ルノーごとお持ち帰りなのだろうか、それともナンバープレートだけのお持ち帰りなのだろうか。少なくとも、よほどお気に入りで、日本の番号も、下2桁だけ揃えていた、ある種お洒落な方なのである。

少し汗ばんだトッツアンが、よその家の駐車場を見ながら、娘と話をしている平和な国ニッポンである。長女も、ドイツ留学が決まり、さすがにドイツでは運転免許も必要だろう。来月から札幌に帰ってきて、自動車教習所のお世話になるのだろう。みーんな、ファイト!





『 幕末 』   [司馬遼太郎]




『 幕末 』 司馬遼太郎/文春文庫(新装版第1刷 2001年9月10日発行)
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p525  (あとがき))
 暗殺だけは、きらいだ。
 と云い云い、ちょうど一年、数百枚にわたって書いてしまった。
 暗殺の定義とは「何等かの暗示、または警告を発せず、突如襲撃し、または偽計を用いて他人を殺害するもの」をいう。人間のかざかみにもおけぬ。
 とおもう感情は、私のように泰平の世に遇会して「天下のために死なねばならぬ」客観的必要のいささかもない書斎人のねごとであろう。
 歴史とはときに、血を欲した。
 このましくないが、暗殺者も、その兇手に斃れた死骸も、ともにわれわれの歴史的遺産である。
 そういう眼で、幕末におこった暗殺事件を見なおしてみた。そして語った。しかしながら、歴史風に。


p24・25
 古来、井伊直弼ほどの暴悪な行政家は、まず少なかろう。
 支離滅裂、いわば精神病理学上の対象者である。


p351
 豈尽さざるべけんや。


p360
 高杉、久坂は精神の格調の高い男だが、聞多、俊輔のふたりは、学問もさしてないかわりに、どこか剽軽で小ずるくて小回りが利き、右の両人のような理想や詩精神などかけらもなくてもひとに犬ころのように可愛がられる点、ふたりは御神酒徳利のように似ている。たがいの俗臭が気易くてごく安心してつきあえる仲間なのだ。そんな弱点でひきあっている。


p510
 「薩長、岩倉にしてやられた」


p516
 咲きかけて散るや大和の桜花 よしや憂き名を世に流すとも



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わからない あぶない


東京とは怖い所かも知れないと思った。厳密には市川だが、細々と入り組んだ小路が続くけれど、そこをまたギリギリの幅で車が通る。しかも少し道幅が出来ると、車は人をあおるように猛スピードで走る。自転車も負けじと、車道をゆく、歩道を行く。みみっちく狭く細く配置された歩道には、いきなり電信柱があり、進行を疎外される。横断歩道を渡るとガードレールのブロック。こんな街に、はたして私は戻ってきて、住むことが出来るのだろうか。

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車が来ている。渡りきれないときは、どうすれば良いのだ! ファイト!




『司馬遼太郎が語る 〈第一集〉』   [司馬遼太郎]




『司馬遼太郎が語る 〈第一集〉』/新潮社(講演)
『建築に観る日本文化』
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《歴史小説家の視点》
 ・「歴史は在るもの」という錯覚 (本当はない → 語られて初めて存在する)
 ・資料=fact=史実・・・「その人」は出てこない → 語られて初めて存在する
 ・履歴書=history=歴史だが「その人」は出てこない → 語られて初めて存在する
 * 雨の中を [創作]、浪士がやってきた[史実]

 ・歴史研究者 (多くいた) ←→ (数少ない) 歴史家=文体を持つ=作家、文学者の一派

 ・文体は、穴掘り作業のシャベルの役割。
 ・鋭利なシャベルは鋭利な掘り起こしをする。風変わりなシャベルは風変わりに掘り起こす。

 ・fact を集められるだけ集めなければならない。曲げることは許されない。
 ・その人間の true を探るために fact が必要。
 ・史実から空想、想像の触媒 → 化学変化


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便利になったなと思うのは、図書館が動いたと感じたときです。
かつては、図書館という「そこ」へ行かなければ、お目当ての本が手に入らなかった。
しかし、今は読みたい本を予約して、どこの図書館か指定して、取りに行くことが出来る。
面倒だった私も、すでにネットで予約して、自分で取りに行く便利を経験中。

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       こういうのが、「便利」ってやつで、これが行政サービスなんだ。
       お金をばらまくだけではなくて、ちょっとしたサービスを工夫する。
       殺風景な地下道に、花を添える作品の展示、良いと思うのだった。

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もっと嬉しいサービスを工夫してくれ、ファイト!




『 翔ぶが如く (五) 』 [司馬遼太郎]




『 翔ぶが如く (五) 』 司馬遼太郎/文春文庫(新装版第1刷 2002年4月10日発行)
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p31
 大久保はその日記で、
 「心決」
 という独特な用語を使っている。日記にいう、「大難事故、心決イタシ候」と。つまり、三人で心決した、それを文章にした、という意味である。大久保という男の性格がよくあらわれている。この「大難」をやる以上は、自分も途中で逃げないが卿(けい)ら二人も逃がさないぞ、という脅迫の意味でもあろう。


p43
 大隈重信は文字がへたであった。かれは自分の悪筆を恥じ、みずから筆をとった手紙、意見書のたぐいは、まったくないといっていい。そのほとんどが、代筆である。


p105
 元来、中国は皇帝専制の国で、その皇帝は宇宙でただひとりの最高の存在とされる。このため、伝統的な中国意識においては、対等の外国というのは一国も存在しない。すべて、外国は中国に隷属すべきものであり、中国皇帝の徳に化せられることをよろこぶべき存在である。


p366
 薩人のなかには将帥の位置につくと、にわかに光彩を発揮する男が多いが、海老原穆(ばく)もそういう男であるようだった。


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「p105」に言うように、中国の考え方というか発想の基本姿勢に、「対等の外国というのは一国も存在しない」「外国は中国に隷属すべきもの」と二段構えがある。この発想に関しては、確かサミュエル・ハンチントンも言っていたように思う。現在の、「中の国」の傍若無人、極悪非道、横暴専断の集団行動は、昔から何も変わっていないのだと思う。

幕末から読み進めてきて、新政府になってからの停滞が、どうも読むのに疲れを覚え、シリーズの半分で一度、休憩を入れることにした。もういちど、幕末の、司馬、他作品を図書館で借りることにした。このシリーズの残り5巻は、また月末以降に再開する。幕末のエネルギーを再び浴びてから読み始める。




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サントノレ


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拙宅の若奥様が、フランス映画『大統領の料理人』で登場した、サントノレを作ってくれた。長女がスイス留学中ホストファミリーと、わざわざ隣町まで買いに行って、食したのち感嘆したものである。次女(若奥様)は、失敗したと言いながらも、美味しかったのだ。

あめがけの小さなシューと、ふんわりフレッシュなメメクリームのサントノレ。ダニエルさんの家に伝わる、おばちゃん(メメ)の味を再現したというレシピによる。


うーむ。すんばらしい! ファイト!!




『 翔ぶが如く (四) 』   [司馬遼太郎]




『 翔ぶが如く (四) 』 司馬遼太郎/文春文庫(新装版第1刷 2002年3月10日発行)
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p157
 村田新八の幕末のころの歌に
 「譲らじな 我も譲らじ 諸共に 君につかふる大和ごころは」
 というのがある。志操というのは譲らぬことだと固くきめていたかれは、よほど頑固なところがあったのであろう。


p165
 「気盛んなれば則ち燈明(ともしび)明らかに、心正しければ則ち物正し」
 と、平素いっていたという、潜庵の唯心主義は、西郷に通じていた。


p171
 大隈は、西郷や板垣を馬鹿だとおもっていた。西郷が参議のころ、かれは太政官に弁当をたべにきているようなもので、あとは板垣を相手に戊辰の戦争のはなしばかりをしていた、という。大隈が、西郷を感情的にきらっていたということはあるにしても、西郷が革命家として重大な一面を欠いていたということはいえるかもしれない。






若奥様に 二度はない

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火曜日は「若奥様デー」となっているようで、いつもと趣向が変わってくる、不・思・議。
鹿児島時代の5年間も、同じ料理は作らなかった、と言う。
友人や知人から、あり得ないから観察、という包囲網を敷かれたらしいが、事実のようだ。

札幌に帰ってきて1ヶ月半、そう言えば、同じものを提供してきたことがない。
依頼製作も、我が元同僚が拙宅を訪れるときも、同じものが提供されたことはなかった。
あまりにも美味しかったとき、リクエストして作ってもらった一回切り同じものだった。

自立した状態を確保しているのだし、研究心だろうか。
それとも、こういう形の意地を張っているのか、修行法なのか。
親に似てこだわり屋なのか、よく分からないが、美味いからイイや。

これからも家族で、ファイト!




『 翔ぶが如く (三) 』   [司馬遼太郎]




札幌も、花咲くサクラ咲く春爛漫、開始。
桜島恋しや、一蔵、西郷どん。




『 翔ぶが如く (三) 』 司馬遼太郎/文春文庫(新装版第1刷 2002年3月10日発行)
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p77
 「時の勢いに乗ってやって来る者は、つい実際の寸法よりも大きくみえる。時が経てばなんでもない人間だったということがわかったりする」
 という意味のことを海舟はいっているが、勝の西郷像の寸法ばかりは不変だったらしい。


p114
 酒は薩摩人につきもののようにおもわれているが、当然ながらすべての人が飲むわけではなく、たとえば西郷や桐野は酒ののめない体質であった。
 黒田清隆はかれ自身はどう制御することもできないほどの豪酒家である。
 酔えば人格も知能もいちじるしく低下するという精神病の範囲に入るところのアルコール性痴呆症であった。


p140
 理想的政論というもののほとんどは現実化しがたいものであるにせよ、もし仮りに西郷のこの政論が現実化できたとすれば後年の日清戦争は無くて済み、さらに西郷が予言していた日露戦争はちがったかたちでやってくることになったかもしれず、しかしながらひるがえっていえば歴史は現実の別名である以上、歴史において仮説は成立し得ない。






復活なんてきっかけは泥臭いものだった 2

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1月下旬に母が腰を骨折し入院していた。その後、3月中旬からリハビリのために生駒の病院へと移った。2月の見舞いでは、これで終わりかなと覚悟をしてしまったが、リハビリ1ヶ月が功を奏して、ものすごく元気になっていて驚いてしまった。

一日に3回、各1時間のリハビリで、始めはキツかったようだ。それでも今は、杖をついて、ひとりで歩けるようにもなり、あとは筋肉の回復を待つリハビリを続けている。ある意味の希望を感じているのか、饒舌になっていた。2月の見舞いでは、ほとんど反応も無く、行っても喜びの表現はなかった。それを今回は、妙にはしゃいでいる感じがした。食欲も旺盛であった。

夕食が終わり暫くの会話の後、帰る段になると、見送りのためにベッドの端に腰掛ける母。リハビリ病棟は直線で50m以上あり、時々振り返ると母が手を上げる私も手を上げる、そういうことを繰り返しながら、一般病棟に入り、もう曲がるので最後に振り返ると、まだ見ている。私が手を上げると母も手を上げる。

バリアフリーの家を購入していたのだけど、札幌に来る気は無いようだ。そして彼女も、リハビリ入院が終了すれば、おそらく介護付き施設に入る覚悟をしているようだ。毎日、洗濯物を回収しに姉が見舞っている。私は時々思い出を作っているだけである。仕方がない、と思うしかない。

頑張れオレ、ファイトだ母!




『 翔ぶが如く (二) 』   [司馬遼太郎]




薩摩隼人が寡黙でありながら、少ない言葉数で意思疎通を図り、それでつうじあうという描写が続く。他藩の連中は言葉を求めるが、あるいは西郷隆盛、一蔵どん(大久保利通)の会話たるや、ほとんど単語レベルで、長すぎる沈黙で理解し合う。そんな描写を読むにつけ、三女の言葉数が少なくとも、強い意志を持つ姿勢をあらためて見るに、この娘は薩摩武士の生まれ変わりなのかなと、ふと考えたりするのだった。



『 翔ぶが如く (二) 』 司馬遼太郎/文春文庫(新装版第1刷 2002年2月10日発行)
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p193
 「欧米へまわると、物がわかるはずだ。以後、君らは日本だけに通用する物の考え方から解放されるだろう。これは日本のためによろこばしい」
 説教癖は、パークスの癖である。


p194
 パークスの意見はつねに極端であった。
 「伊藤と大隈のいうことを聴かなければ日本は滅びるだろう」
 といったのである。とくにこの言葉は、西郷従道の耳につよくひびいた。従道が征韓論さわぎにさいして兄に傾かず伊藤を同志にしたのは従道の思想が基調にあるとはいえ、この事実は見のがせない。


p298
 もし空いている一地方にある国が自国の勢力を入りこませようとするならば、あらゆる根回しが必要で、そのめざす地方の王朝よりもむしろその地方に関心を持つ列国に対して十分な手をうっておかなければかならず失敗するという智恵を欧州の政治家はよく知っていた。かれらが邪智に富んでいるのではなく、そういう国際環境の中でそれぞれが国家を成立させているために経験が体質化しているといっていい。
 日本の歴史には国際環境という、国家行動を規整する力学がきわめて微小にしかみられず、そういう孤独な社会をつくってきた。


p346
 「それはなりませぬ」
 と大久保は日常よくいう。可能の限界を明示することは大久保の政治感覚のなかでもっとも重要なことであった。かれは日本国の政綱を攬(と)るにあたって、一見無数のように見える可能性のなかからほんのわずかな可能性のみを摘出し、それにむかって組織と財力を集中する政治家であったが、同時に不可能な事柄については、たとえそれが魅力的な課題であり、大衆がそれを欲していても、冷酷といえるほどの態度と不退転の意志をもってそれを拒否した。にべもなかった。
 死につながるであろう。
 この種の冷酷な拒否的態度と、政策への断乎とした集中力の発揮は、その当事者の精神の根底にいつでも死ねる覚悟がなければならず、大久保にはそれが常住存在した。
 やがては大久保は、かれが予感したように、殺されるべき人物であった。大衆は政治についてのこのような生真面目な明晰者を好まないというおそるべき性格をもっている。大衆は明晰よりも恩情を愛し、拒否よりも陽気で放漫な大きさを好み、正論よりも悲壮にあこがれる。さらに大衆というものの厄介さは、明晰と拒否と正論をやがては悪として見ることであり、この大衆の中からいずれは一個の異常者が出現し、匕首(あいくち)を握るかもしれなかった。


p368
 (板垣と副島もあまい)
 と岩倉は、その鉢びらきの頭のすみでおもった。
   ※ 鉢開き坊主=鉢坊主=托鉢して歩く坊主。乞食坊主。鉢開き。




復活なんてきっかけは泥臭いものだった 1

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次女のブログに言う、
「何をそんなに長い間悩んどったのか」とA先生には笑いながら言われましたが、「案外あっさり切れたやろ」との事でした。


何度も何度も、絶望に近い苦しみを感じるのは精神衛生上、それは良くありません。だからこそ、環境を変えてみようとするのは、人生の大きな時間のなかでは必要なことで、当たるか外れるかそれは知らぬ、されど、さればこそ、あがいてみようとするのも良く、沈黙してしまい動かぬのも良いかも知れない、と還暦を過ぎてオヤジは思うのです。

自分自身が、ターミナルに到着し、ここは終点ではあるけれど、出発点でもあるわけで、さあさあ、次ですよ次。花でも買って、音楽でも聴いて、次でしょ、次。ファイト!



『 翔ぶが如く (一) 』   [司馬遼太郎]




こんどは西郷どんが主人公になるのだけど、維新後の落ち着かない新政府の時期で、思想の時代から行動の時代を通り、いよいよ調整の時期に入ったわけだが、やはりきな臭い。幕末動乱期に「パシリ」だった連中が、それなりの顔になっていくのも面白い。大隈重信が顔を見せ始めるから、長女は少し嬉しいかも知れない。ただ、扱われ方の軽さに、一部憤慨はするだろうが。




『 翔ぶが如く (一) 』 司馬遼太郎/文春文庫(2002年2月10日発行)
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p103
 ところが薩摩の士族習慣のおかしさは、あいさつ口上でさえ多弁を恥じることであった。万事、言葉を信ぜず、心を信ずるという風があり、「見ればわかる。言うも聴くも必要なか。」と言い、態度で意思疎通がおこなわれた。川路は心から恐縮を表わしつつ、しこしずつ後じさりした。


p217
 山県は長州の足軽だった男で、奇兵隊に入り藩内の動乱のなかにあって着実に地歩を築き、明治後いきなり陸軍中将になった。旧藩時代は藩内の革命陣営に属していたくせに石橋をたたいて渡るような用心ぶかいたちで、たとえば故高杉晋作のような天馬空をゆくような男を兄貴株に頂いていながら、高杉の高等数学的発想にひきずられることなく、いつもそのそばで足し算の算盤しかやらず、つねに高杉に対して堅実なブレーキの役目をはたした。
 維新後、同藩の大村益次郎が兵部大輔(ひょうぶだゆう)になって山県はその下風に立ったが、大村が暗殺されるにおよんで陸軍の長州閥は山県がにぎった。


p300
 西郷がこうもいっていた。
 「自分を愛することが、善からぬことの第一である」
 とか、あるいは後世に親炙されされたところの「命も要らず、名も要らず、官位も金も要らぬ人は始末にこまるものである。しかしこの始末にこまる人ならでは艱難を共にして国家の大業は成しえられぬものだ」ということも川路は西郷自身の言葉で聴いていたし、西郷そのひとがまったくその言葉どおりの人であるということも、多年西郷に接してきてよくわかっている。


p346
 (神仏というものは人の善悪を見そなわさぬものなのか。悪がこうも栄えてよいものか。)
 と、藩士のどの家庭でもささやかれた。それがわずか二十三年前のことである。沢子の家では父が郷士であるため藩の行政に無縁だった。このためこの抗争の局外にいたが、父はこの悲報をきいたとき、声をあげて泣いた。彼女はまだ幼女だったが、父が見せた男泣きという異様な光景を、成人後もわすれることができない。沢子は事情のわからぬまま、正義を守るということがいかにおそろしいものであるかを知った。






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ある日の昼下がりのことである。
ときおりだが、次女が手の込んだ昼ご飯を作るので、楽しみである。
しかし何よりもの楽しみは、次女が新しい生活に血を通わせ始めていること。
5年間の鹿児島生活に終止符を打って、ある種の一大決心で帰ってきた。

一昨日の日曜に、ローカルな大会があり、次女の決勝2種目の応援に行った。
楽しそうに泳いでいたのが良かった。
200m自由形と100m自由形決勝の間隔が20分しかなかったけれど、よく泳いでいた。
予定していたジャパン・オープンの標準タイムを切ることが出来た。
少しずつ調子を取り戻している。そんな実感が見ていて分かる。決断に胸を張ろう。ファイト!



司馬遼太郎が語る 〈第二集〉   [司馬遼太郎]




横着なのかも知れないがこれも良いと思っている


時間が生まれて、有効活用しなければならないと思っている。しかし何をどう活用すれば良いか、全くもって不意打ちに近いくらい準備不足だった。かと言って、〈60歳からの過ごし方〉なんて本を探すのもバカみたいだし、生徒には、「男子三日会わざれば刮目して見るべし」などと言っていた手前、「三日前のオレより成長する」ことをテーマに、自己鍛錬しようと決めた。

心酔する〈あるいるさん〉のアイデアを拝借して、図書館で朗読CDを借りることにした。桂枝雀と古今亭志ん朝をまず借りた。よし、語りの練習をするかと軽い気持ち。機械に取り込んで、BGM。ふと気づき、新潮カセット文庫のCD版を探すと、お、あった。作家自ら語るものに、司馬遼太郎が8本、小林秀雄が7本、向田邦子が1本。運動不足解消の散歩のお供にこれだと、頭に電球が点灯した。




『司馬遼太郎が語る 〈第二集〉』/新潮社(講演)
『歴史小説家の視点』
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   1. 歴史的事実からこぼれ落ちるもの
   2. 歴史小説家の歴史の見方
   3. 鎌倉時代になぜ彫刻が流行ったか
   4. 武士が興した無教養の時代
   5. 幕末期の事実からわかること
   6. 道徳で死ねた時代
   7. 経済感覚に優れた幕末の先覚者


約60分の講演で、これは慶応大学を使ったのかと思われたが、それはどうでもよい。面白かった。最近復活して読みまくっている作品を、違う角度から考えることが出来て楽しい。1週間、毎日、1回は聴くことにする。惚け防止と、賢くなるぞということである。我慢してたけど、聴くための道具を入手する。ふっふっふ。



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若奥様の「ふわプリ揚げ」と「白菜のコールスロー」ママの誕生日食 その1



若奥様である次女は、まだ嫁ぐこともなく、細々と泳いでいる。おそらく、確たる「自分」を持って生きているのだろうと思う。今も自分のやりたいことを、しっかりとこなしている。そこらのアンポンタンとは違って、良く育っているのだと思う。


昨日、ママのための晩ご飯を作る娘に、言われたひとこと。
「何か生きがいを見つけなきゃね」って。
オレの生きがいは、・・・娘たちを応援することだ! 36663


ファイト!




『 峠 (下) 』   [司馬遼太郎]




『 峠 (下) 』 司馬遼太郎/新潮文庫(平成15年10月25日発行)
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p25
 「立見君、あなたの一生のために言うのだが、人というものはね」
 と、継之助は言いかけて、あとはしばらくだまった。
 (その長ずるところのものによって身を過つものだ。)
 と言おうとしたが、言葉が立見にむごすぎるとおもったのである。この立見鑑三郞というのは、この時代が生んだもっともすぐれた軍人であるだろう。その長ずるところが使えないために心が鬱屈し、使おうとして時勢観察までに自分に都合よくまげ、都合のわるい材料には目をつぶり、ひたすらにそれを使おうとしている。


p136
 この列島は、当初、西南(九州)からひらけた。九州でそだったエネルギーが、しだいに北上して瀬戸内海、大阪湾沿岸、大和、びわ湖周辺におよび、やがて大陸から、国家のつくりかたというあたらしい概念が入ってきて大化の改新が成立し、日本民族が国家というもののなかで組織された。


p234
 「政治というものは、そこまで考えぬいたすえでなければ、どういう小さな手も打てない。」


p433(作者あとがき)
 幕末期に完成した武士という人間像は、日本人がうみだした、多少奇形であるにしてもその結晶のみごとさにおいて人間の芸術品とまでいえるように思える。しかもこの種の人間は、個人的物欲を肯定する戦国期や、あるいは西洋には生まれなかった。サムライという日本語が幕末期からいまなお世界語でありつづけているというのは、かれらが両刀を帯びてチャンバラをするからではなく、類型のない美的人間ということで世界がめずらしがったのであろう。








美しいが寂しいおとこ継之助


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2012年8月18日 新潟県長岡市 三女のインターハイ競泳応援 三女・妻・長女



終わりました。寂しいですね。
確かに美しいかも知れないし、サムライ美。しかし庶民はたまったものじゃありません。

おそらく庶民の怒りや、恨みは、司馬が言うとおり相当つよかったでしょう。ただ、歴史の中のことはいつでも「ちょっとしたこと」に左右されてしまうので、あとからとやかく言うものではない。ただ、継之助の「長岡藩の独立」はさせてやりたかった。竜馬の海援隊による「商売」もその成果を見たかったが、しかしそこから学んだ後世の者たちが、何をかなすのでしょう。・・・ワレは?



オマエはと、問いをいつでもそこへと差し向ける、オレ。だから、考えている。

世の中の洗濯をするほど器量はなく、それでも言葉を弄して、何かをする。

その前にまず、届いた大量のワインを飲む。・・・ファイト!