20年前のオモチャ [むかし噺]
バテてしんどいのは、日ハムが負けたからかな。
それとも単純に老化がそうさせるのか。
アルバイトの面接で、久々に人と話をしたからかな。
「Domani(ドマーニ)」という雑誌があって1996年 12月の創刊である。
その宣伝で配られた広告の品が、なぜかたくさんあった。
20年も前のモノが普通に眠っていて、よほど気に入っていたのか。
子どもたちが大いに喜んだ記憶がある。
さすがに、長女と次女が喜んだくらいで、2歳だった三女は無理だったろう。
翌年の雪祭りの頃、デイブとヒムと三人で、これをかけて大通を騒いだな。
オモチャ眼鏡をかけて遠い光を見ると、文字が浮かび上がる。
街灯なんかが分かりやすくて、灯りの回りに「Domani」と浮かぶ。
初めて見た娘は、飛び上がって喜んでいた。
今は昔、使ってない物は誰かにあげちゃうことになる。
やがては、何もなかったかのように静まりかえる。
こうやって断捨離は深く静かに潜行していく。
ファイト!
浮気な応援団 [むかし噺]
よーけぇー勝ちんさい、日本ハム。
どーかいの。
元・広島県民じゃけぇ、困ったわな、日本シリーズ。
むかし船乗りだった頃、広島県民だった。
広島市民球場でオールスター戦があった時、球場近くで入院していた。
たしか藤井外科だったと思う。
ピース! 頑張れ日本ハム。
福岡県人会で働いていた福岡ファンのくせに、CSでは日ハムを応援した。
いや、半世紀前、南海ホークス子どもクラブだったのに日ハムか。
広島が、近鉄と日本シリーズを戦っている時、長野を放浪していた。
江夏がスクイズを外す投球をした時、特急あずさの中にいた。
トンネルを通過するたびに途切れる、ラジオ放送に聞き入っていた。
後楽園球場では3塁側の少数派でありながら、カープを応援し続けた。
しかし、やっぱり、住めば都、本拠地を移し、新庄が来て、日ハムだな。
斎藤佑樹、ビールかけには出てたけど、彼の話題には誰も触れない。
浮気なオレ、きっと広島が優勝しても、どこかで嬉しいのだろうな。
それでも、大谷を持ってるんだから、誇らしく初戦は日ハムを応援である。
持ってる、そう、斎藤佑樹も持ってるんだけど、登板予定はない。
人生、難しいな。
単に応援するだけの浮気は、楽チンだけど。
結局、何かにつけて、飲めりゃええんじゃけぇ-。
平和だ。
ファイト!
瞑想時代 [むかし噺]
心にしみることが、最近ない。
指にしみることがあって、よく見ると包丁で切ったあとだ。
火傷や切り傷が増えたのは、ボクが下手な調理を繰り返すから。
脳内では海馬が休まずに働き続けている。
図書館の司書さんのように、たくさんの情報を整理している。
記憶を捨てる作業も担っていて、浅い眠りの頃にその作業に専念している。
海馬クンが、嫌な記憶を忘れさせてくれているから、厚顔無恥も生きられる。
妻は、嫌な思い出はすぐに忘れるそうだ。
時々、「あの時」の思い出を話しても、覚えてないと答えることが多い。
妻の海馬クンは、私との思い出を、全てイヤな物としているのだろうか。
新婚の頃、夜明け前に泣きながらお弁当を作っていた妻を覚えている。
今の妻のようにテキパキ出来ない「もどかしさ」だろうが、覚えていないらしい。
ボクは今、調理に時間がかかりすぎて、そんな妻の姿を思い出す。
ボクの海馬クンは、そんなことを思い出させて、どうしようと言うのだろう。
切り傷も火傷のあとも痛い、山ほどそんなことを重ねた人が目の前に居る。
妻がボクの思い出を全て忘れていくなら、怖い。
もっと怖いのは、自分の記憶が全部消えていくことだろう。
海馬クン再生のために、今日も瞑想をする。 迷走はしない。
ファイト!
廃棄とリサイクル [むかし噺]
よく寝た、と言うより起きられなかった。
9時半に寝て、今朝は6時半の起床だから驚いた。
昨日は3ヶ月ぶりに、三女と妻の3人で、野幌のプールで泳いだのだった。
緯度はさほど変わらずとも標高が10mほど高い野幌総合運動公園。
心なしか色づいていて秋の気配である。
長女もインハイ全道を泳いだし、次女は大暴れした、三女も暴れた。
そんなプールで泳ぐのも、疲れる。
最近は、向こう岸と言っても三途の川ではなく、50mを完泳できるか不安。
娘のように水中族ではないことを確認する。
足ヒレが割れたので捨てる。
およそ40年前、クイズ優勝でハナウマベイに行った時も、持参して素潜りをした。
オレって物持ちが良く、大阪の高校時代のダッフルコートを長女に譲ったほどだ。
パドルは次女から貰ったが、どちらも左で使いにくかったし、捨てよう。
三女曰く、練習でぶつかってパドルは割れる。
次女姉ちゃんは右が割れることが多かったのだ、と。
次女が言うには、泳いでいて声援は聞こえないが、姿は見えるという。
次女はブッシュマン並みの視力だから、時計を見ながら泳いでいたらしい。
観客席が見えるのなら見分けやすいように、いつも原色を着ていたチチである。
原色を着るオッサンは奇異で、よくコーチたちにからかわれた。
プールサイドからもすぐに発見出来るからだよと、うそぶいていた。
お役御免、ユニクロでリサイクルに出す。
晩ご飯には、「牛肉とキノコのワイン煮込み」である。
Asahi レシピを拝借して、小間切れとキノコたっぷりに妻も舌鼓。
バケットを買ってきて、焼いて添える。 赤ワインな晩ご飯。
娘たちが泳がないなら水泳に興味を失うかも知れない。
やっぱり泳ぐことより、応援が楽しかったんだなとつくづく思う。
廃棄とリサイクル、10月が始まった。
ファイト!
食と住の断片 [むかし噺]
むかし、東中野駅から実質徒歩2分のかなり汚いアパートに住んでいた。
アパートの名はパール荘と言い、私は「パール荘の怪人」だったらしい。
アパートの家主が同名の床屋さんだったのだが、使ったことはない。
絶対恩師がいちどだけ遊びに来て、座るなりゴロンと転んでしまった。
部屋が大きく傾いていて、座り方にコツがあることを教えていなかったのだ。
そう言えば陽が当たらず、梅雨には革ジャンが、カビで緑色になったりした。
金もなかったので、小汚い便所共用も、忍耐作りであった。
大学に通うには便利だったが、それだけしかメリットはなかった。
2種類のゴキブリが定住していて、衛生環境も最悪だった。
記憶に靄がかかっている部分があって、しかし悪事ではないと思う。
ただ、どういう理由で靄がかかっているのか、すごく気になってしまう。
夢で見た時はその靄の前で、ボロボロの羽根のカラスがホバリングをしていた。
こんど東京へ行った時には、現地視察を試みるとする。
きっと何かを思い出すかも知れない。
それまでパール荘を、記憶の片隅に置いておこうと思う。
三女が当てた、今治タオル。
鹿児島から不在届けの連絡があり、転送して貰ったという。
佐川急便は転送の料金を取ろうとしたが、日本郵便は取ろうとしなかった。
三女が、パンを作ってくれた。
チーズクリームとリンゴのパン、だそうだが、美味。
パン好き娘は、自作でもその質を向上させている。
お向かいの方がトウモロコシを持っていらっしゃった。
去年貰ったとき甘くて絶賛し、今年もくれて大絶賛したら、また持って来てくれた。
家族で争奪戦ですよと言ったら、来年も持って来ますと仰った。
本当の気持ちは言うもんだなと、この甘さに感謝している。
次女が大好きなので、1本、こんどはナマで冷凍した。
これを食べるためだけにでも、次女なら帰ってくるかも知れない。
三女が、来年4月からのアパートをインターネット探している。
鹿児島へ帰る前に、祖母宅に数日間居候し、住居予定の地区を回るようだ。
助言はせずとも、父めいた、事件性の高い住居を手に入れることはなかろう。
友と出会い、人物と出会い、伴侶とも出会う。
そして住居とも出会いがあり、ささやかでも生活がある。
三女の新生活準備が始まっている。
ファイト!
顔面大やけどもあった [むかし噺]
以前、次女がオフで帰った時、小まめに「写真」をスキャンしてくれた。
断捨離でアルバム類を捨てる作業に入った時だった。
外付けのHD(1TB)を買って格納してくれたので、写真は捨てたけど、aru いる。
(ここから一気に紅葉してしまう最後の緑)
妻の凜々しくキリリとカメラ目線お写真があったなと、HDを久々に覗いた。
あろうことか不気味な写真を発見してしまった、およよ。
顔面に大やけどを負った時の写真で、ある、いる。
東中野駅前のパール荘にて、アサヒペンタックスSPで自撮りするアンポンタン。
中野まで電車通院だが、小さな女の子に、ママこの人コワイ、と言われた。
コーガンの微少年の面影を失い、路線変更を迫られた切ない時期そのものである。
水ぶくれが潰れると、焦げ臭いニオイがした。
これ以降、外見で勝負する背伸びは全くしなくなった。
妻と出会うまで2年、それでも遊び人を続け、奇っ怪な事件に巻き込まれ続けた。
いちどこの時期のことはゆっくり整理しようと思う。
ある意味で不思議な力が働いていたとしか思えないから。
飛び込み自殺目撃や腐乱死体発見や、新宿流血事件と、続いたんだもん。
基本的に日本酒は飲まないのだけど、次女が当ててくれたからね。
お相撲も終わって、それに似た間合いで、日ハム戦を見ながら飲む。
サラダチキンが美味く出来ていたし、炊き込み御飯も勝利復活。
苦しい戦いが続いているが日ハム、何とか勝利した。
失速のソフトバンクが負けて、北海道日本ハムファイターズのマジックは、1。
残り3 試合でマジック 1 は、かなり余裕が持てる。
それでも油断大敵。
総力戦で行こうぜ、大谷ガンバレ。
逃げ切ったら勝ち、今日決めちゃうのかな。
ファイト!
ノロケたろか 2 [むかし噺]
妻をタカちゃんと呼び、ママと呼ぶようになった。
出会ってからほとんど、彼女の名前を呼んだことがない。
現在、妻は我が母と同姓同名であり、名前では呼びにくいのだった。
( トト姉ちゃんふうに 1 )
先日、三女が母の住む快適ハウスを訪問した際、言われたという。
「あの子は」と、私に関する話。
あの子の一番の親孝行は、あんたのお母さんと結婚したことや。
( トト姉ちゃんふうに 2 )
プロポーズは一緒に住まへんか、めいたもので、即答、OK だった。
速攻ご挨拶に行き、結婚を前提として付き合いたいと、父上に申し上げた。
今から北海道に就職する者が、どうやって付き合うのか、と言われ納得、敗退。
代理人を立て、接待漬けに押し込み口上、手練手管。
凄腕の代理人は、私不在で結納どころか式場予約まで済ませてしまう。
相手に反撃の余地を与えず、豪腕ぶりが奇跡を起こす。
ずっと以前に笑いながら、妻が「だまされた」と言うのが納得できなかった。
しかし今にして、これは一種の拉致問題だったのかと、ふと思うのである。
しかしながら全てはあとの祭り、祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
人生、逃げ切ったら、勝ち。
日ハムにマジック 3、残り4 試合に自力優勝が見えてきた。
野球も逃げ切ったら、勝ち。
ファイト!
ノロケたろか [むかし噺]
トコちゃんは安田火災改め損保ジャパンで、今も働いている。
タカちゃんは、私に騙されて、惜しまれながら日産を退社した。
我が魔の吸引力で、猿払原野も近い道北の、片田舎に嫁いだとさ。
今の妻と出会った時、彼女がなぜタカちゃんと呼ばれるのか、知らなかった。
やがて、千代の富士が好きで、魚屋さんになりたかったことを知る。
背が高く、モデルのようなお嬢さんの気品に圧倒されながらも、嫁さんめっけ。
誰もが知る、お嬢様集う女子高出身の、世間知らずは騙しやすい。
そんなことは考えず、一途に静かに罠を張り、猛烈アタック。
「エースをねらえ」の藤堂貴之が好きで、タカちゃんと呼ばれていると知る。
マンガを読むとバカになると教育を受けてきた身には、理解できない話だった。
姓名に「た」も「か」もなく、タカちゃんと呼ばれる由来がマンガだなんて。
それでも「嫁さんめっけ」だから、逆らうことなく、タカちゃんと呼んでいた。
ずっとタカちゃんだったけれど、三姉妹が育つにつれ、そう呼ばなくなった。
子どもたちと一緒にママと呼ぶようになっていたが、今は私だけがママと呼ぶ。
娘たちは最近、お母さんと呼んでいることを知り、パパとお母さんという珍妙さだ。
「ミリバール」が「ヘクトパスカル」に変わった時のような違和感。
妻が呼び方を変えさせた話は、次女から教わった。
そんなことを思い出していたら、三女の列車が到着した。
三女の高額奨学金は返済しなくて良いけれど、研修と中間報告の義務がある。
関西と四国遠征の旅費も出してくれるのだから、人材育成の思いが伝わる。
さて、三女を待ち受ける晩ご飯には、「鶏肉ときのこのとろみ炒め」である。
三女の要望で、妻がおでんを作っている。
オイスター風味の炊き込み鶏飯は、ちょっと失敗。
ポテトサラダは上手く作れず、1勝1敗1引き分けである。
やっと日ハムのマジックは「5」だが、油断は出来ない。
ファイト!
新緑の季節 [むかし噺]
草刈りをしても、一雨ごとに雑草は逞しく天をついてくる。
木々も、新緑を携え、新しい活力をみなぎらせてくる。
札幌でも、よさこいソーラン祭りがいよいよ終盤を迎える。
「エルムの森公園」と名付けられた、小洒落た公園がある。
このすぐ近くの公宅で5年ほど過ごしたが、三姉妹の庭にした公園であった。
狭い公宅で娘たちを育てるのに、三段ベッドと妻が大いに活躍したのだった。
三段ベッドから三段ロケットが発射され、長女は現在、ドイツまで飛んで行っている。
次女は東京、三女は鹿児島と、まだまだ充電中である。
娘たちが母と遊んだ公園も世代交代し、併設のパークゴルフ場では老人が元気である。
この公園で娘たちと遊んだ記憶がほとんどなく、残念に思う。
こんな所で走り回ると、きっと楽しかっただろうなと思うのだ。
ベンチがあったけれど、腰掛ける時間もなかったのだから仕方がない。
ファイト!
遠い記憶の祭 [むかし噺]
文鎮を重宝するようになったのは、書類仕事の増えた教師になってからである。
大阪を出てから広島、東京、北海道と移住をしたが、未だに捨てない文鎮がある。
退職した今は、文鎮くんも窓際族になったのだけど。
この文鎮はどうやって手に入れたのかというと、「大阪祭」に参加して、貰ったものだと思う。しかしその祭が、本当にあったのかどうか、便利そうなネットで調べても出てこないのである。記憶も断片的で、この文鎮を手渡された記憶はないし、定かではないという不安がある。
文鎮を裏返してみると、そこにはちゃんと「大阪祭」と彫られていて、実際にそのような祭があったことは間違いないと思う。受け取った記憶がないままに、文鎮はたしかに手元にあって、それを捨てずに引っ越しを重ねてきた。半世紀も前のこと、精査しようにも、よくわからない。
住吉警察署に剣道場があって、週に2回の練習に参加していた。そして、住吉剣友会として、大阪祭に参加したのだが、上の写真は小学5年生か6年生であることは間違いない。そして、着替えたのは「うつぼ公園」だったと思う。ここで若武者風の装束に着替えて、大阪城の方へ歩いて行ったと思う。
秀吉の役を中馬馨市長がやり、淀君を宝塚のキレイなお姉さんが扮していた。ホラ貝を吹いているオジサンに、貸してもらって全然吹けなかったことを覚えている。あとは、交通費として500円とか貰ったような気もしている。ものすごく気になっているのだけど、誰も知らないというのが怖い。
ファイト!