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「コンビニ人間」   [読書 本]





       龍さんは最近どうしたのだろう。
       いやによく褒めるというか、絶賛する。
       全スペースを受賞作にだけ捧げ、後半は絶賛だ。

       第155回芥川賞受賞作
       「コンビニ人間」 村田沙耶香



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選評:村上龍 ◆(前略)◆「現実を描き出す」それは小説が持つ特質であり、力だ。隠蔽されがちで、また当然のこととして見過ごされがちで、あるいは異物として簡単に排除されがちな現実を描く、そして、正確な言葉を発することが出来ない人の、悲しみ、苦悩、嘆き、愚痴、数奇な行動などをていねいに翻訳し、ディテールを重ね、物語として紡ぐことで本質的なことを露わにする。今に限らず、現実は、常に、見えにくい。複雑に絡み合っているが、それはバラバラになったジグソーパズルのように脈絡がなく、本質的なものを抽出するのは、どんな時代でも至難の業だ。作者は「コンビニ」という、どこにでも存在して、誰もが知っている場所で生きる人々を厳密に描写することに挑戦し、勝利した。◆しかも「コンビニ人間」には上質のユーモアがあり、作者に客観性が備わっていることを示す。このような作品が誕生し、受賞したことを素直に喜びたい。




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去年の文藝春秋・九月特別号で読んだ2作品よりはずっと良い作品を読んだという感想を持った。力のある人なんだろうと思うし、人物設定に極端さと奇異さを感じつつも、あり得るだろうな、と思える現実がしっかり切り取られている。

コンビニではないが、サービス的な接客業に就いた次女の職業意識を知るにつけ、彼女にも、この作品のような音や空気が流れ始め、それに馴染んできたのだろうと考えて、面白いから読むがイイ、と薦めた。




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もちろん、おそらくだが、うちの次女は魅力的な女の子だし、親が言うのも妙な話だが、そんなに壊れている感じはしないのだよ。




ファイト!





『顔に降りかかる雨』   [読書 本]




    桐野夏生のエッセイが教科書に載っていたように思う。
    そんなこともあり、彼の作品を読んでみようとふと思った。
    選び方を間違えれば、損した気分になることが分かった。


『顔に降りかかる雨』 桐野夏生/講談社文庫 (1996年7月15日 第1刷発行)
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p239
大事なのは変だと感じる感性と、何故だと考える想像力だ。

p369
私は気づかれないように、そっと物陰から彼女の写真を数枚撮った。それから、近所のカメラ量販店の「即日」という看板の出ているところで現像に出した。現像の上がるのは夕方。
 私は、公衆電話を探した



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色褪せる物は必ずあって、「写真の現像」も、「公衆電話」も、今では見かけない代物になっている。いつかテレビでやっていたけれど、札幌駅前で親子をつかまえて10円を渡し、息子が公衆電話から電話をかけるのを父親がそばで見る、というものだった。受話器を持ち上げてから10円を入れるということに、なかなか気づかない息子。 見ていた父親が驚いていたのが印象的だった。



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「江戸川乱歩賞受賞」作品は、考えてみれば、東野圭吾のそれも、まだまだ未熟というか、こねくり回した感じが抜けていない。出発点を読むのは、娯楽のためであれば、あれこれと突っ込みを入れたくなってしまうのも当たり前だった。だから、文句は言わない。


    犬のように待つか。 ワンワン。
    猫のようにさっさと寝てしまうか。 ニャーニャー。
    オジサンはおのぼりさんだから、散歩しながら考える。 キョロ、キョロ。



ファイト!





『たった一人の熱狂』   [読書 本]




おそらくバイタリティー溢れる人って、疲れるんだろうなと思った。
行き止まりにつき進路変更のため、洗車中のような状態の私には、キツいし重かった。
図書館で予約しておいたら、季節外れに届いた本。

10代後半から、志を少しでも持つ連中のハートに火を付けそうで、図書館に予約していた。
たしかに、あの生徒会長さんには断片でも読ませてやりたかった気がする。
若者のハートに火を付ける、着火剤のような言葉が多かったけれど、おさんには重かった。

やりすぎだとか、よくまあそんなに頑張れるなあ、と以前は言われ人が離れていった。
現役時代の私は、こんな押しつけがましさがあったのだろうか、と少し恐怖する。
熱い言葉の乱射はあったけれど、うーむ、時代に合わなかったのかなー。






『たった一人の熱狂』 見城 徹/双葉社 (20015年 3月22日 第一刷発行)
  仕事と人生に効く51の言葉
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p15
 職を転々としながら、茫漠とした気持ちで天職を見つけようとしても、巡り会えるものではない。自分を痛めながら何かに入れ上げる。生き方の集積が全てを決めるのだ。

p31
 圧倒的努力ができるかどうかは、要は心の問題なのだ。どんなに苦しくても仕事を途中で放り出さず、誰よりも自分に厳しく途方もない努力を重ねる。できるかできないかではなく、やるかやらないかの差が勝負を決するのだ。

p77
 「有名人や芸能人と仲良くなるにはどうしたらいいですか」
 こんな質問をする時点で、その人はまったく見込みがないと思う。人はキミがどんなカードを持っているか、冷静に見ているものだ。キミの価値を決めるのはキミ自身ではない。相手だ。キミが仕事で結果を出し続けていれば、「あの人はキラーカードを持っている」と気づいた人が向こうから近づいてくる。

p90
 仕事ができない人間の共通点は、自分に甘いこと。思い込みが強いこと。小さなこと、片隅の人を大事にしないこと。約束を守らないこと。時間に遅れること。他者への想像力が足りないこと。

p165
 小さく生きて、小さく死んでいく。誠実に生きて、誠実に自分の運命を引き受けて死んでいく。





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昨日、札幌でも桜の開花宣言があった。別に彼らが宣言しようが、しまいが、既に、近所では咲いていたし、咲いて居なけりゃ咲いていないのさ。 どうも、気象庁の方って、ああやってテレビに出たがるのかな。もっと可愛い子がピンクのスカートはいて言ってくれるなら、おじさんも嬉しいけれど。 オレは宣言されなくても、自分の目で確認できるし、近所にも色々な種類の桜も咲き始めている。・・・ちょっと反抗的なおじさんなんだ。



ファイト!





『星々の悲しみ』    [読書 本]




悔いを残したくないと思っている。
しかし、悔いが残るためには、やりたいことがなければならない。
それが果たせない時に悔いるわけだから、で、オレのやりたいことって、何よ。



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大学時代、文学部の卒論でお世話になった教授からの年賀状には、今年もいつもながらの長い手書き文章があった。「小生、今年喜寿を迎えます」で始まり、縦書きがスペースを失いナメクジのように進路を横に変えて、「・・・たように、自伝めいたものを書いておいた方がよいと思うがどうだろうか?」と結ばれていた。

1月からずっと気になっていて、「前へ」が主軸の前向き人生を歩む私が、ずっと今までのことをあれこれ考えるようになってしまっている。考えるだけで、恥ずかしくて、懺悔だらけで、いたたまれなくて、もう既に、怯えるだけのおっさんになってしまっている。そういう隙間の出来た心に、青春だとか恋愛がテーマの作品が、入り込んでくるようになってしまった。自身の、守りの弱さを感じている。






『星々の悲しみ』 宮本輝/文春文庫 (2008年 8月10日 新装版第一刷)
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p17
ぼくはぼんやりと、薄暗い部屋を囲むようにしてきちんと並べられている夥しい数の書物を眺めた。これらの本を、たとえすべて読破したからといって、希望する大学に入れるわけではないのだという考えが、ほんの少しのあいだ、ぼくに強い不安感をもたらした。頬杖をついて、ガラス窓越しに黒い雲が拡がったり縮んだりするさまを見ていた。大学にさえ入ってしまえば、本を読むことも女の子を口説いてみることも、気が変になるくらい勉強してみることも自由なのだと思うと、またいっそう腹立たしくなってきた。






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宮本輝の短編集を読んだのだが、全てに物足りなさを感じた。人物を描くのが上手な作家だと思うのだが、短編にしておくのが勿体ない。せめて連作短編にでもなっていれば、もっと違う楽しみが出来たのだけど、仕方がない。暫く宮本輝は休んで、違う作家に移る。大型長編が届いたから、そちらに心が転移してしまった。




少しだけ地味な生活が始まりました。というか、単調な生活。学生時代に戻ったような。


ファイト!






『道頓堀川』   [読書 本]




朝5時では、妻が寝ているからテレビはつけないのだが、なんだか疲れていて、テレビをつけてボンヤリしていたら、大きな地震があったと言う話。 全く知らないで爆睡していたのだけど、震度7 は大きくて、心配になった。震源地の熊本への思いもあるが、鹿児島の方はどうだったか、三女の心配をした。親心なんだろうな。






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宮本輝という作家が居ることは知っていた。私がまだ、年長さんの学生稼業と甘ったれていた時代に、映画友だちと見に行った『泥の河』(1981年)に、溜め息を漏らしたことがある。登場する3人の子どもの演技、演技指導、演出が秀逸で、自分と同時代の光景でもあり、非常に良い映画だった。その作品の原作者は、宮本輝だった。 ただ、映画が良すぎて、原作へ回帰することはなかった。





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宮本輝の講演会CD『小説が生まれる時』を図書館で借りて、何度も聴いていた。親しみやすい大阪弁で、聴衆を笑わせる気配りのある語りだった。結核時代の話も、苦労話ではなく笑い飛ばす、「しなやか」な強さがある。聴いていて爽やかで、通勤特急のお供だった。好きになった。

    宮本輝
      1947年 兵庫県生まれ
      1970年 追手門学院大学文学部卒業
      1977年 『泥の河』/太宰治賞
      1978年 『螢川』/芥川龍之介賞
      1986年 『優駿』/吉川英治文学賞

ウィキペディアで、こんなエピソードを読むと、そう来たかと思ってしまう。
 雨宿りに立ち寄った書店で某有名作家の短編小説を読んだところ、書かれていた日本語が「目を白黒させるほど」あまりにひどく、とても最後までは読み通せなかった。かつて文学作品を大量に読んだことがある自分ならば、もっと面白いものが書けると思い、退社を決め、小説を書き始める。






『道頓堀川』 宮本輝/筑摩書房 (1981年5月25日 第一冊発行)
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カネなし、コネなし、単位なし。極貧学生の邦彦が生活の糧を求めて、道頓堀川に面した、戎橋近くの喫茶店「リバー」に住み込み、彼の目を通してその界隈の、わけありな人と人情が交錯していく。この作品は作者が「あとがき」で書いているように、短編作品として世に問うた後、大幅に加筆訂正、書き加えをしており、作品の「一貫性」としては微妙にズレを感じたのだった。

ズレは視点で感じだのだが、W主人公と捉えれば、各章ごとに主人公を入れ替える体裁を整えたのかなと思った。主人公である邦彦に、優しい目を向ける店主の武内がもう一人の主人公であり、その、彼らを内包する道頓堀川こそが、本物の主人公だと改編したのではないか。

しみじみと、しんみりと、読み終えた。宮本輝が好きになった。さっそくもう1冊と『星々の悲しみ』を図書館に発注した。村上龍の予約待ちがあと2人まで迫ってきているので、先に来て欲しい。

私がミナミでバイトしていた頃より、数年前の時代設定だと思うが、現在にはない人情味を思い出し、感じることが出来る。なんとなく自分の、駆け出しの青春時代を思い出してしまった。ギラギラとはしていないのだけど、危険な季節を、羅針盤も持たずに生きていこうとしていた、あの頃。・・・少し思い出して懐かしく感じている。

「邦ちゃんも、いっぺん幸橋の上から道頓堀を眺めたらええ。昼間はあかんでェ、夜や、それもいちばん賑やかな、盛りの時間や」



水商売が好きなキリギリス君には危険な香りが、いっぱい。 周囲の者たちと、坂道を互いに転げていくのだから、遅いのか速いのか、堕ちているのかさえも分からない「キリギリス君」を思い出し、それでも愛おしいのはなぜだろうかと、『道頓堀川』を読んで考えている。



ファイト!




『「いじめ」をめぐる物語』   [読書 本]




学校の図書室がファンタジーに侵食されている現状に抗って、国語教師の分際をわきまえた推薦図書を選ばせて貰っていた。村上春樹と村上龍に偏ることがないように、個人的趣味で、市立図書館ではほぼ1年待ちの東野圭吾の新刊もゴメン、入れてしまったが、それでも昨日読んだ1冊が入っているのだから宜しい。

ファンタジーも文学の一領域で、真っ向否定はしていない。しかし、あまりにもお手軽すぎる活字の漫画であれば、リクエストがいくらあろうとも、迎合しすぎてはいけない。正しく大人が毅然と薦める本があるべきで、「本腰を入れて読む」、「のめりこんでしまう」ものを選定すべきだと思っている。

ただ、悔しいことに、個人的に不買運動を展開している、売国の徒、朝日新聞出版からの本だから、1冊分、儲けさせてしまったようである。これは是非、図書館で借りて読むか、5つの短編集だから、立ち読みですませましょうぞ。



『「いじめ」をめぐる物語』 萩原浩 ほか/朝日新聞出版 (2015年9月30日 第一冊発行)
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p182
「本当に不思議なのよ。気にくわない子が一人いる。その子が存在している事実それ自体が許せない。そこまで強く相手を嫌って、バカにできる労力は、どこから来るの? 普段、かかわる子供ひとりひとりの事例を見て、私はよく考えるけど、あなたから連絡が来て、企画書を読んで、今回、心から聞いてみたいと思った。私は当事者としてされたことをよく覚えている。今、大人になって、あの頃より言葉でそれを説明できるようになったあなたが会いにくるなら、聞いてみたいと思った」




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活字の漫画より、日日確実に、今そこでおこなわれている「虐め」は、なかなか表面には出てこない。だからこそ、読書の素材として、生徒諸君には読ませたいと思うのだった。大人の世界でも、自殺に追い込むほどの虐めがなされているのが現状で、モーツアルトの「ヴァイオリンと管弦楽のためのアダージョ」などを流しながら読んでいると、本当に暗く切なくなってしまう。オレじゃないよ、と思いながらも、ゴメン、とつい思ってしまう。

萩原浩、小田雅久仁、越谷オサム、辻村深月、中島さなえ、という5人の作家が、それぞれ切り口の違う作品を見せてくれている。いわゆる「落ち」の読めるものもあるし、「読ませる」筆をお持ちの作家だから、小さな小さな推理小説とも取れる。次年度も時間があるなら、課題図書にした所だが、やはり朝日に儲けさせてはイケナイという、天命であろう。




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小学4年生の、Rくんより
(前略) 2020年、5年に一度の和道会ワールドカップがあり、中学生の日本代表を勝ち取り、海外の選手と話ができるよう、じゅんびします。◆最後に、高校時代のお父さんと、お母さんの事を教えてくれてありがとうございました。  がんばってもうひとがんばり R



未来に目を向けて



ファイト!




『命売ります』   [読書 本]




三島由紀夫の作品を読むのは、大阪の高校時代以来、彼が市ヶ谷で自決して以降か。必要があってエッセイくらいは読んだかも知れないが、本腰を入れて作品は読んでいない。理由は簡単で、形容詞が多くて、どうもついていけなくなったからだと思う。


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三島を読んでみようと思った理由は、辛坊治郎のメルマガによる。
 タイトルは「命売ります」。どうやらこの本、三島が死ぬ数年前に週刊プレイボーイに連載していた作品らしく、20年近く前に文庫で出版されてから、なんと20万部を超えるベストセラーになっているようなんです。読んでびっくり、三島の作品だと知らなければ絶対に、星新一か筒井康隆の長編小説だと思いますよ。とにかく驚くほど通俗的で、しかもエンターテインメント路線まっしぐらなんです。週刊プレイボーイにこの作品が掲載されて数年後に三島の身に起きることを考えると、いろいろ深い想像力を働かせながら行間を読むことも出来るんでしょうけど、たぶんこの本を読んだほとんどの人の感想は「へー、三島ってこんな妙な小説も書いていたんだ」ってところでしょうね。    辛坊治郎メールマガジン第247号(11月27日発行)




『命売ります』三島由紀夫/筑摩書房(1998年2月24日 第一刷発行)
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p134
「(前略)羽仁男君が命を鴻毛の軽きに比することのできる人間だということもわかったし・・・」「コーモーって何ですか」
と薫が小さな声できいた。
「コーモーって、つまりコーモーさ。そんなことも知らんのかねえ。このごろの高校生は。だから今の日本の教育はダメだというんだ。(攻略)」

「鴻毛の軽きに比する」を知る今の高校生は、いないと思う。しかし、昨日の「あさが来た」で「比翼連理」を使ったから、こういう懐古調も脳みそのために掘り起こすのは良いかも知れない。「このごろの高校生」は選挙権も手に入れるのだけど、全く鍛えられていない。


p159
 それからA国大使に申し上げますが、これからはもう物事をあんまり複雑に考えるのは止しになさるんですね。人生も政治も案外単純浅薄なものですよ。もっとも、いつでも死ねる気でなくては、そういう心境にはなれませんがね。生きたいという欲が、すべて物事を複雑怪奇に見せてしまうんです。

死にたがる三島の考えは、さほど複雑怪奇ではなく、意外に単純な物だったのだろうなと思う。


p151
その腕の痛みさえ、戸外の春光の中ではきらきらしかった。

「きらきらし」は古語辞典にある。現代語としてはもう殆ど見なくなっている。三島は形容詞が好きで、しかし形容詞は時代と共に褪せていく。現代文学では、どう教えるのだろう。私が講座を持つ時、書き手になれば注視した描写にこだわり、形容句を排除して、観察描写を重ねろと教える。大学で、松本清張の作品分析を通して学んだことは、核心に迫る筆に形容句は無用と言うことだった。

p222
命を売っているときは何の恐怖も感じなかったのに、今では、まるで、猫を抱いて寝ているように、温かい毛だらけの恐怖が、彼の胸にすがりつき、しっかりと爪を立てていた。
p260
夜が羽仁男の胸に貼りついた。夜はべったり彼の顔に貼りついて窒息させるかのようだった。

作品の冒頭1ページは、村上春樹の短編のような、あるいは村上の不条理小説のような出だしで、おや、と思ったものである。比喩表現も多く、辛抱さんの言うエンターテインメント路線にしては、ブレーキが掛かりすぎた。

それでも、こういうデカダンスは好きで、ちょっと回りくどいセリフ回しも、石原裕次郎出演初期の日活映画を見ているような雰囲気はあり、無国籍風味が面白かった。・・・え? 三島がねぇ、という作品。ただ、絶賛はしないけれど、だんだん「死」に吸い込まれていきそうな時期の、彼の中の衰えが書かせたのだろうなと思う。




ふしぎな雪模様を見た

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ずっと暴風雪警報の中にいた気はするが、全くそんな気配のない日日だった。それでも少しは雪が降ったりやんだりして、今後のための雪捨て場所を確保するために、昨日は少しばかり、庭で働いた。作業に専念していて見落としていたのだが、変わった雪の積もり方を見て、その面白さにシャッターを押した。


ファイト!




『権現の踊り子』   [読書 本]




錯覚というものは恐ろしいもので、名前が三文字の作家を妻が読んでいることを知っていた。
そして妻が町田康を読んでいると思い込んでいたら、読んだことあらしまへん。
あ、そー、と思い直しながら、妻には勧めない。

美味しい物を隠してしまういつもの癖とは違って、妻のよき理解者として、薦めない。
人にはそれぞれ感性があり、おそらく彼女は受け入れないだろう。
少し、十年あまりの、大阪のハッタリと勢いが自分の中にあって、読むことが出来たのかな。




『権現の踊り子』 町田 康 / 講談社 (第一刷発行2003年 3月24日)
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電車の中や職場で、腹の立つことがある。文句を言いたくて、押し寄せてくるもの、それを大阪の方は「これだけは言わせてもらうわ」と、わざわざそれだけのために立ち上がることが出来る。ほんの少しそういう感覚が私の中にもあり、しかし、大阪を出てからは自分に言い聞かせ、発火させてからでなければ文句が言えない。

押し寄せてくる文句の感情は、そのつど抑えなければならないことを教えられ、大人になる努力をしたが、結局は抑え込んだ物を忘れる努力も必要となり、そのドロドロした物が、尋常ではない箇所に蓄えられていくのだと思う。突然、キレてしまうオッサンの多くは、必要以上に抑え込んだ物が突如発火してしまう、小心者だったのだろう。

鳩山元総理の乗る車が、公道で右翼団体「草莽崛起(そうもうくっき)の会」の街宣車に取り囲まれ、身動きできなくなったニュースを見て、道路事情を考えると迷惑な話だな、と声を出すのだけど、スッキリしている自分がいる。菅元総理が安倍総理を訴えて、当然のように敗訴するニュースを見ながら、森喜朗や村山富市と一緒に、どこか酸素の薄い所に、だれか置き去りにしてきてくれないかなと妄想する。

宝くじに当たればどのように使うか、具体的な使用計画も煮詰まってきたけれど、一向に当たる気配のない理不尽にも耐え、妄想だけが慰めのオッサンは、すでに立派な小市民。しかし、ドロドロと蓄えられた、不完全燃焼の怒りが、人を狂気へと走らせるのだろうよ。

そんな危険な小説だった。
町田さんの短編集から読み始めた。この方、芥川賞作家なんだね。タイトルの『権現の踊り子』は川端康成文学賞を取っているし、評価は安定している作家、と思いきや確実に二分されるであろう強烈な、毒々しいエネルギーを持っていて、怒りの着火剤のような読後感がある。今の私には危険な小説だと思った。


6つの短編が盛り込まれていたが、冒頭の『鶴の壺』には参った。参り具合は文体で、野坂昭如にあるような、句点がなかなか出てこないもどかしさ。読むにつれ不快感がせりあがり、何度も身構えてしまった。きっとこの方はリズムの作家であろう、要注意。

3つめの『工夫の減さん』あたりから落ち着きが出て、慣れ始め、読めた。
おそらく「減さん」は、世の「減産」の駄洒落だろう。



『権現の踊り子』には、「ひんがら目」(p67)が堂々と登場し、言葉狩り初期にはやられていたのではないかと心配をした。この方の語彙が古風でよろしい。軽薄な作家、石田衣良なんかよりはずっと言葉をもてあそぶお方で、宜しかった。

「人を見とがめ誰何し」(p68)なんて、兵隊さんみたいに、「スイカ」=誰だ誰だ。あるいは、「屹度(きっと)」(p72)や、「路傍の小屋掛けに起居する」(p72)、「恬然として」(p84)という言葉回しだ。テンゼンと来れば、もちろん「驟雨」(p97)も降るのだった。

世では、ジタバタしても始まらないと、我慢するのだが。町田氏の作中人物は、ほぼ全員、ジタバタしてから始めていて、追い詰められて、追い立てられて、追い打ちをかけられ、走りに走る。逆に、抑制しておいた我が心のドロドロが、噴出口を求め、事件が発火しそうになった、危険。デアル。

抑制!せよ、ということなのだろう。オレはキレずに、ジタバタするかな。







偏差値の構造


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偏差値から離れて1年近くたったが、また縦に伸びる世界となった。SS80を越える世界はなかったのだけど、下の30代が発生し、80を越える学部が増殖中。格差社会の、確実な線引きが就職活動中にもあり、表だってはどの社も言わないけれど、ある。

昔は、大手企業に採用された大学学部が赤本(教学社)にも掲載されていたけれど、ここ5年ほど、ほぼ完全に見なくなった。ということは、採用に関する偏りがあっても、外からは分からないようになっていると言うこと。競争がよくないと、隠したから、「平等になった」ように錯覚し、現実は、大学名で足切りが、ないとは誰も言えないのだった。

自分の出身大学学部が偏差値を高騰させるのは、オレの力ではないのだけれど、10ポイント以上も上がっていると、びっくりポンやと、腰を抜かしそうになる。


再就職組、ジタバタしてみようかな、オレ様も。





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『シューカツ』   [読書 本]




あ、それ私2回読んだ、と次女が言った。
図書館出張所の「本日返却分」の棚にあった、『シューカツ』という本である。
少しばかり気になるタイトルで借りたのだが、しかし作者の石田衣良は嫌いだった。

直木賞作家にエラそうには言えないが、ふんわりと優しげに装う姿勢が気に食わなかった。
ずっと昔、受賞後だと思うが、銀座に構えたご自身の事務所で対応する、その姿勢に反感。
「文士たる者」と、作家に気骨を求める無頼派志向の私には、許せない軟弱姿勢だった。

作家は作品で判断しろ、内なる声が聞こえ抑制するのだけど、生理的反感は消えない。
何を狂ったかテレビに出まくり、無知をさらけ出し、漢字も言葉も知らない。
えっ? それでアンタ小説家でっかいな、とずっと思い、偏見は傾斜を深める。


『シューカツ』 石田衣良/文藝春秋 (2008年10月10日 第1刷発行)
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「えー、非正規社員の生涯賃金は一億円に届きません。九千七百万くらいかな。それに対して、大企業の正社員なら、まあ二億から二億五千万円はいきます。同じように六十歳まで働いて、倍以上の差がつくのです。みなさんも来年の春には就職試験を控えているわけですが、新卒のゴールデンチケットをしっかりとつかみとってきちんと就職してください。日本ではチャンスは実質一回きりしかないのです」
 ざわざわしていた階段教室が、生涯賃金の話になったとたん静まり返った。
こういう試算はよくある。そして、だから大企業だ、できたら公務員だと、おじさんは子どもに期待してしまう。しかしながら、拓銀もつぶれたし、山一證券もないし、国鉄も解体し、ソ連も崩壊した。江戸幕府だって消えてなくなってしまったではないか。未来永劫、つづき続ける「絶対安心」はないわけで、これだけ変化が加速している時代なら、変化への対応能力を高めて、あとは悔いのないように、心の声に従うことだ。次女よ、そのうえで、将来の設計を作るのだね。お父さんは応援しているよ。ファイト!



p227
 目をあげると厳しいほど澄んだ冬空のした、一次面接の会場になる多目的ホールの屋根が三角形にとがっていた。
こういう気取り先行の文章が好きになれないのでした。雰囲気を出したいのはわかるけれど、「厳しいほど澄んだ冬空」がよくわからなくなってしまう。「下」を「した」と表記したことも、不明。ときどき、集中力を欠いたように、こういう文章が登場し、混乱する。



p304
千晴が選んだのは、良弘の番号だった。男子学生がでると千晴は叫んだ。
3~4回こういうことをしてくる。主人公が落ち込んだりして、思いを寄せてくる良弘に携帯で電話を掛けるこのシーンも、「良弘」を「男子学生」に変える理由がわからない。『羅生門』をつかって、小説基礎を教えているときも、「下人」が「一人の男」に表記が変わるる。こういう、人物の呼び方を具体から抽象に変化させるのは理由があって、場面転換の暗示や、緊張感作成や、「登場人物を突き放して客観的観察を加える」などだけど、石田氏の作品で、そういう効果が深読みできない。ただ、錯乱とは言わないが、集中力の低下があり、好まない癖である。



現在、心理的に、青春小説を求める時期だから、「うん、おもしろかった」という感想かな。まあ、エピローグなどは鼻持ちならない石田氏らしい気取りだったけれど。まだまだずっとずっと、ピース又吉の『火花』のほうが作品レベルは高い。活字の漫画を読んだ、というところだろう。コミックの時代に好まれる作家なのかもしれない。以上、オシマイ、の石田氏でした。

あーあ、「口直しに」と、同じ直木賞でも違いを見せる東野圭吾に戻ることにしよう。
午後の札幌は雪。


ファイト!






『火花』 『スクラップ・アンド・ビルド』   [読書 本]




文藝春秋が格安に思える月があって、芥川賞発表の月と、正月の号である。

たとえば今年の九月号は、塩野七生の2ページ連載の「日本人へ」も148回目となり、「なぜ、ドイツ人は嫌われるのか」と相変わらず骨太である。東芝の不正連鎖を招いた真犯人追及記事は、やっと現実が追いついてきている所だし、ニトリ社長夫婦の対談も面白かった。

しかし、芥川賞発表号の嬉しさ、お得感は、「選評」が掲載されていることである。自分の中にある物差しを、ある意味で軌道修正する、もしくは、自信を深めるのが「選評」である。これらは読んでいて楽しいが、たとえば今号の『火花』の作者インタビューに、「芥川賞の選評が僕の物差しだった」と又吉が答えている。



文藝春秋 九月特別号 (2015年9月1日発行)
『火花』 又吉直樹
『スクラップ・アンド・ビルド』 羽田圭介

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小説なんてものは個人の好みだし、一刀両断で切り落とすわけにはいかないだろうが、『スクラップ・アンド・ビルド』に関しては、いかがなものかと思ってしまう。再読はあり得ないだろうし、筆の未熟は否めない。死にたがる爺さんの観察が、甘くはなかろうか。

『火花』に関しても、宮本輝が指摘するように、おそらく出版業界を盛り上げるための妥協の産物に思える。ただ、村上龍も指摘するように「長い」と思ったし、尻切れとんぼにならざるを得ないその落としどころが苦しいが、作者自身が言い訳しているとおりだと思う。そして、島田雅彦の指摘通り、次作が問題だと思った。

『火花』は、文学青年風味の味わいはあったし、思っていたほどひどくはなかった。ただ、高樹のぶ子の辛辣な選評も正しくて、彼女は言い出す勇気があった。井上靖が結局、村上春樹の芥川賞受賞を阻んでいたが、その井上を、坂口安吾は「作者は人間の見方や掴み方には深みも新しさもないが、俗才で人間を処理してゆく手際は巧妙で、なんといっても、大人である。『猟銃』はとらない。『闘牛』の方向にのびる方が、はるかに逞しい作品を書きうるだろう。」と、可能性まで読んでいる。

未来は判らない。それでも、一つの賞の選後評を、読後にチェックするのは、選者たちの真剣さがあるが故に、そこらの書評とはちがう面白さがある。又吉の次作は、読むかも知れないが、読みたいという意欲はない。ただ今回、青春小説を読みたいと、そういう飢えを持ったのは事実で、又吉に触発されたのかも知れない。


宮本 輝
・マスコミによって作られたような登場の仕方で、眉に唾のような先入観さえ抱いていた。

山田詠美
・『火花』。ウェル・ダン。これ以上寝かせたら、文学臭過多になるぎりぎりのところで抑えて、まさに読み頃。

高樹のぶ子
・話題の『火花』の優れたところは他の選者に譲る。私が最後まで×を付けたのは、破天荒で世界をひっくり返す言葉で支えられた神谷の魅力が、後半、言葉とは無縁の豊胸手術に堕し、それと共に本作の魅力も萎んだせいだ。火花は途中で消えた。作者は終わり方が判らなかったのではないか。

村上 龍
・好感を持ったが、積極的に推すことができなかった。「長すぎる」と思ったからだ。問題は作品の具体的な長さではない。読者の一人に「長すぎる」と思わせたこと、そのものである。(中略)新人作家だけが持つ「手がつけられない恐さ」「不思議な魅力を持つ過剰な欠落」がない。だが、それは、必然性のあるモチーフを発見し物語に織り込んでいくことが非常に困難なこの時代状況にあって、「致命的な欠点」とは言えないだろう。これだけ哀感に充ち、リアリティを感じさせる青春小説を書くのは簡単ではない。

島田雅彦
・漫才二十本分くらいのネタでディテールを埋め尽くしてゆけば、読み応えのある小説が一本仕上がることを又吉は証明したことになるが、今回の「楽屋落ち」は一回しか使えない。





RANCHO ELPASO (SINCE 1976/帯広)

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どろ豚のソーセージがぷにゅぷにゅで、非常に美味しい帯広の店である。
ワインもあり、じっくり友人と飲みながら、音楽を聴き、談笑したい店である。

壁に描かれた豚の鼻に触ると、「トントンびょうしに運がつきます」と書いてある。
小市民は、あやかりたいと、これでよしと、触るのである。
しかしよくよく考えてみると、「運が尽きます」ならどうしようと、不安が生まれるのだ。
小市民を惑わさないように、漢字で書いてくれ! 「トントン拍子」も普通は漢字だよ。



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